アジールフロッタン復活プロジェクト

2019.08.18

ル・コルビュジエが愛した浮かぶ建築

アジール・フロッタン

「アジール・フロッタン復活プロジェクト」

 アジール・フロッタン、当時リエージュ号とよばれた石炭を運搬するためのコンクリート船は1919年に製造されている。そして、救世軍の依頼によりル・コルビュジエがリノベーションを行い、前川國男が担当し1929年に完成している。このアジール・フロッタンの歴史的展開における興味深い記録を紹介する。現在、日本建築設計学会では「アジール・フロッタン復活プロジェクト」を推進しており、2019年末には浮上のための工事が行われる予定である。

 

1.石炭船リエージュ号

アジール・フロッタンとは、1919年頃に作られた石炭を運ぶためのコンクリート製の平底船の通称である。第一次世界大戦中、フランスではドイツ軍との戦争下にあり石炭が不足していた。生命線である石炭をパリへ補給するには、ロンドンからの海路とセーヌ川を遡上する輸送しか残されていなかった。そこで、この石炭補給と連合国軍からの物資輸送を行うため 250 隻ほどのコンクリート船団の製造が計画された。製造に関しては、1855年のパリ万国博覧会でヨゼフ= ルイ・ランボが展示した金網入りのモルタル船の技術が認められたことから、1906年に建材として認知された鉄筋コンクリート構造を船の構造として採用した。鉄筋コンクリート船製造のためのドックをセーヌ川口近くのアンフルヴィルにつくり、ここからセーヌ川へ送り出された。この平底船団には、戦争の被害を受けたヨーロッパ諸都市の名前がつけられ、リエージュ号(後のアジール・フロッタン)もその中の一隻として1919年頃に造られた。第一次世界大戦が終わるとこのコンクリート船団は整理されたが、その中の一部が残されリエージュ号もルーアンの河岸に放置されていた。それをプロテスタント教団であるパリの救世軍が取得し、第一次世界大戦の影響によりパリ市内に多くいた戦争難民を収容する目的で1929年にリノベーションを行った。この改修工事の資金は、当時パリで活躍していた女流画家マドレーヌ・ジルハルトとシンガーミシン社創業者の娘であるウィナレッタ・シンガーの寄付が元になっている。そして、建築家ル・コルビュジエ(42歳・以降同様に1929年時の年齢を記載)をそのリノベーションの設計者に指名し、救世軍の他の建築にも多くの資金を提供したのがこのウィナレッタ・シンガー・ポリニャック(64歳)である。さらにこのリノベーションは、ル・コルビュジエの代表作であるサヴォア邸(1928-31)に先立ち1929年に完成しているが、これは世界恐慌の年であり、MoMA(ニューヨーク近代美術館)が設立され、同時代の代表的な建築家ミース・ファン・デル・ローエのバルセロナパビリオンができた年でもある。

 

2.コルビュジエの「近代建築5原則」

1929年リノベーションの依頼を受けたコルビュジエは、コンクリート製の箱船に対してピロティ状の柱と水平連続窓そして屋上庭園を持つ屋根を付加する増設を行った。これにより自由な平面と様式建築とは無縁な自由な立面を獲得し、コルビュジエが提唱した近代建築の5原則をいち早く実現した。この工事は、現場の仮囲いも兼ねてパリの中心とも言えるシテ島の上流2kmほどにあるオーステルリッツ橋の下で行われた。余談ではあるがこのような即物的とも言えるアイデアは、後年作のコルビュジエの自宅もある「ナンジェセール・エ・コリ通りの集合住宅」の設計に際して隣の建物の壁面を借用する発想の萌芽としてみるのは考えすぎだろうか。また、このアジール・フロッタンの構想から実現までを、1928年からコルビュジエの元に弟子入りをしていた建築家前川國男(24歳)がこのリノベーションを担当し目撃していた。コルビュジエの代表作であるサヴォア邸は1928年から設計に着手し1931年に竣工しているが、コルビュジエが提唱した「近代建築5原則」を明確に具体化した作品として世界的に知られている。この代表作と並行する時期にアジール・フロッタンの設計依頼を受けたことで、先に竣工するアジール・フロッタンにより「近代建築5原則」を実践し確認しようとしたことは容易に推測できる。また、ブルジョワの住宅であるサヴォア邸に対して、アジール・フロッタンはローコストであり難民のための空間、コルビュジエがそれらを同等に考え設計に取り組んでいたことは注目すべき出来事である。ピロティと水平連続窓そして4m間隔の2列の柱の間に2段ベッドを設置し、広がりのある高さと空間が用意され、左右の水平連続窓からは船底に太陽光が全員に等しく行き渡る気持ちのよい居住空間である。これも余談であるが、当時は設計と施工の費用を建築家が直接管理していたことなども考えると、厳しいプロジェクトであるアジール・フロッタンのリノベーションであったが、コルビュジエは制約の多い船にも関わらず理想空間を具体化するためにエネルギーを注いだと考えられる。

 

3.アジール・フロッタンをめぐる女性たちの支援

船のリノベーションには多くの資金を要したが、これには当時のパリで活躍した女性たちが多く関わっていたことを紹介したい。
 まず最初に登場するのは、先述のマドレーヌ・ジルハルト(66歳)でパートナーの遺産を救世軍に寄贈し、それが放棄されていたコンクリート船を買い取る資金となった。彼女は、同じく画家でパートナーのルイーズ=カトリーヌ・ブレスローと共同生活をしていたが、ルイーズ=カトリーヌが亡くなりその遺産を救世軍に寄付することで船の購入を提案し、船の名前を「ルイーズ・カトリーヌ号」とすることを条件とした。
 次は、当時のセーヌ川右岸において著名なサロンを主宰し音楽家や画家たちのパトロンとなっていた、先述のウィンナレッタ・シンガー・ポリニャック。多くの人が耳にしたであろうシンガーミシン社の創業者アイザック・シンガーの18番目の娘である。アイザック・シンガーはミシンを改良し、1855年のパリ万博に自社のミシンを出品し金賞を獲得している。以後、シンガーミシンの性能が評価され、またおりしも軍備拡張の波もあり、あっという間に世界的な企業に成長した。1908年、ニューヨークに当時としては世界一高い187mのシンガービルを建てている。ウィンナレッタ・シンガーは、1875年にアイザックが亡くなったことから遺産を相続し1878年にパリに移り住んだ。そのころから、莫大な遺産を背景にパトロンとなり、エリック・サティ(63歳)や後述の薩摩治郎八が兄事したモーリス・ラヴェル(54歳)、イーゴリ・ストラビンスキー(47歳)、フェデリコ・モンポウ(36歳)など多くの音楽家への支援を行った。このウィンナレッタ・シンガー・ポリニャックが救世軍に船の改修費用として多額の寄付を行い、その設計者としてコルビュジエを指名したことは先に述べたが、この前後コルビュジエは複数の救世軍の建築を設計しており、それらの資金もウィンナレッタ・シンガー・ポリニャックが出していることは注目に値する。
 注目すべきもう一人はセーヌ川の左岸にあった著名サロンの主人ナタリー・クリフォード・バーネイ(53歳)、アメリカからパリにきた作家でありフェミニズムの先駆者でもある。ジャコブ通り20番地のバーネイの金曜サロンは、当時の先鋭的アーティストが集まるところとして有名であったが、なんとこのバーネイが住んでいた同じアパルトマンの3階にコルビュジエが1917〜1931年まで住んでいた。単なる偶然ではないだろう。また、コルビュジエの兄アルベール・ジャンヌレ(43歳)は音楽家としてベルリンで活動していたが、コルビュジエに呼び寄せられ、従兄弟のピエール・ジャンヌレ(33歳)と共にこのアパルトマンの階上で暮らし、そしてコルビュジエの代表作でありのちのコルビュジエ財団の拠点にもなるラ・ロッシュ/ジャンヌレ邸の住人となる。ウィンナレッタ・シンガーが1893年に再婚した相手が30歳年上のエドモン・ド・ポリニャック公爵であるが、公爵の支援も受け1894年にスコラ・カントルム音楽学院が設立された。ここの設立者がヴァンサン・ダンディ(78歳)であり、コルビュジエの縁であろうか、兄ジャンヌレは1919年にこのスコラ・カントルム音楽学院に職を得ている。この左岸のサロンには、コルビュジエとも親交のあったアイリーン・グレイ(51歳)、ウィンナレッタ・シンガーの兄パリス・シンガーと結婚していたダンサーのイサドラ・ダンカン(1927年没50歳)、シャルロット・ペリアン(26歳)、ジャン・コクトー(40歳)など多くのアーティストや資産家のペギー・グッゲンハイム(31歳)なども出入りしている。また、シンガー・ポリニャックの友人でもあるアメリカ人画家のロメーヌ・ブルックスとバーネイは愛人関係にあり、ブルックスはシンガー・ポリニャックの友人のピアニストのレガータ・ボルガッティ(35歳)とも愛人関係にあった。バーネイのサロンはこの時代特有の複雑な人びとの交流と人生の結節点になっていた。
 女流建築家として著名であったアイリーン・グレイ。彼女のアパルトマン(ボナパルト通り21番地)とアトリエ(ゲネゴー通り11番地)もバーネイがいたジャコブ通り20番地の100mほどのところにあり、コルビュジエのセーヴル通り35番地のアトリエとも徒歩圏内でかなり近いと言える。もちろん、コルビュジエの友人であり、グレイのパートナーでもあったジャン・バドビッチ(36歳)も頻繁にバーネイのサロンに出入りしていたことは容易に想像できる。2017年に日本でも公開された映画『ル・コルビュジエとアイリーン・グレイ 追憶のヴィラ』の主な舞台ともなっていたが、バドビッチと過ごしたアイリーン・グレイ設計の「E.1027」、これも1929年に竣工している。
ちなみに、結婚前のコルビュジエを魅了したダンサーのジョセフィン・ベーカー(23歳)との出会いは1929年の南米リオからの帰国の船上であり、ウィーンの建築家アドルフ・ロース(59歳)のジョセフィン・ベーカー邸計画案はその前年である。1929年前後にこのような人々の不思議な交りがあり、これらがパリのクリエイター達の創作活動の背景になっていたことはとても興味深い。

 

4.1929年前後のパリの日本人 

19世紀終わりから1914年に第一次世界対戦が勃発するまでの25年間の「ベル・エポック(良き時代)」に対して、パリがもっとも活気づいていた1920年代は「レ・ザネ・フォル(Les Années Folles 狂乱の時代)」と呼ばれる。この呼称はやや馴染みが薄いが、その絶頂期は1926〜29年と言われている。この時期にも多くの日本人がパリに渡っていたが、アジール・フロッタンの人脈に関連のある人たちを紹介したい。
当時のパリで日本人として名を轟かせていたのが薩摩治郎八(28歳)。私と同郷の近江を源とする木綿問屋を営む豪商の三代目であり、パトロンとして画家の藤田嗣治(43歳)や岡鹿之助(31歳)など多くのアーティストを支援した。
次に菅原精造(45歳)、この人の名前を知る人は少ない。菅原はアイリーン・グレイに漆の技術を教えた人物として歴史に名を刻まれているが、1878年の第3回パリ万博においてジャポニスムの旋風が巻き起こり、その影響もあって漆芸の技をパリのガイヤール工房に伝える人材として1905年に招聘され渡仏している。菅原は1910年にガイヤール工房を辞めている、パリが100年に1度の未曾有の大増水に見舞われた年である。その後、菅原は成り行きかパリに残ることを決意し、グレイとの出会いもあり彼女の工房の漆工を指南することになった。グレイはこの漆工技術を活かした家具やインテリアにより初期の名声を獲得したと言っても過言ではないだろう。

菅原に象徴される異邦人としての活動や移民は今後の日本を考える上でも参考になる。移民や難民は現在の世界において重い課題であり、日本では今後深刻化する労働者不足もあり避けて通ることはできない。国外からの難民だけではなく、国内では転勤や失業なども含めて考えれば我々自身も難民予備軍でもあり、このことは近未来の日本社会が抱えるトリレンマ(三つ巴の難問)である。アジール・フロッタンの物語はこの難問に取り組む手がかりを示しているのではないか。当時も多くの人が手を差し伸べることのなかったホームレスに、価値観を超えて安心できるベッドとパンをあたえることができた事実は大きい。

さて、前川國男は1928年にパリに到着しているが、前川は母方の伯父の佐藤尚武(後の外務大臣、参議院議長)が国際連盟帝国事務局長としてパリにいることを手立てに渡仏を決意したと語っている。佐藤尚武は1930年のロンドン海軍軍縮会議では事務総長を務めているが、駐英全権大使は先の薩摩治郎八の妻千代の叔父松平恒雄(52歳)であり、この会議を取材するために岡本太郎(18歳)と父一平(43歳)が事前にパリに来ていた。その薩摩治郎八が作った日本館の定礎式には、佐藤尚武が出席した記録が残されており、その縁もあって前川は日本館に滞在したのであろう。また、前川をアトリエに受け入れることを決めたコルビュジエは、アイリーン・グレイのアトリエにいる菅原精造を通して弟子となる初めての日本人の素性を事前に理解したことで応諾したのではないだろうか。前川からの入所希望に対し、事務所へ迎え入れる返答は、コルビュジエから佐藤尚武に直接告げている。
 前川は1929年、コルビュジエの事務所でルイーズ・カトリーヌ号の担当をしていた。このことは、前川の作図による「図面番号2224」がコルビュジエ財団のアーカイブに残されている。このようにパリにおける前川の痕跡は確かに残っているが、前川の言説にはアイリーン・グレイや菅原精造に関わる話は見当たらない。しかし当時のジャコブ通り20番地近辺の人間模様やセーヴル通り35番地のアトリエとの関係から、彼らを見知っていた可能性は高い。鹿島茂の著書『蕩尽王、パリをゆく』では、薩摩治郎八の祖父治兵衛の出自を滋賀県犬上郡豊郷町と記しているが、前川の父貫一の出身が近隣の彦根市でもあることから、異国の地での出会いがあれば同郷として話題になったと想像できる。また前川は、叔父の佐藤尚武と近い関係にあったフランス大使館駐在武官の木村隆三(30歳)とは在仏時から親しくしており、帰国後の最初の仕事となる「木村産業研究所」の設計依頼を1930年に受けている。『パリ・日本人の心象地図―1867-1945』によれば、1929年当時パリに在留していた日本人は755名おり、上記の人たちとは距離的にも人間関係も近い関係にある。前川がこれらの異邦人たちと遭遇していた可能性は大いにある。

 

5.受難から復活へ

1929年末に竣工を迎えたアジール・フロッタンは、その後60年ほどの間、戦争や経済の変動により生み出された難民たちに一夜の心休まるベッドとスープを提供してきた。しかし、1990年頃には最後の居住者もいなくなり、放置された状態に近くなった。製造からは70年が経過し老朽化も激しくなり受難が続く。

そこで5人がパリ在住の5人が、コルビュジエ作品を後世に残すべく、救世軍から買い取り修復活動を始めた。私の関わりは、そのうちの主要な資金を提供したフランシス・ケルテキアン氏から修復工事中に船を覆うシェルターのデザイン依頼を受けたんのが2006年である。その後、セーヌ川を管理する河川局からハードルの高いシェルター設置認可を受け、工事着手の手はずとなり2008年にはパリで行われる秋の芸術祭フェスティバルドートンヌでプロジェクト発表と展覧会を行なった。
しかし、喜びもつかの間、リーマン・ブラザーズショックにより修復プロジェクトが暗礁に乗り上げストップしてしまった。その後、大きな変化は見られなかったが、地道な修復を行い2017年には内部も整理され使える状況に近づいていた。この時期にパリの修復を行う再生者らと相談し、船の内部で日本人建築展の開催企画、それと並行して日本でアジール・フロッタンを紹介する再生展を東京のアーキテクツ・スタジオ・ジャパンの空間で行なった。この展覧会にはル・コルビュジエ財団の特別協力もあり、当時の図面や写真など貴重な資料など多くの提供を受けた。現在は中国の天津・瀋陽・大連・北京を巡回し今秋には再度北京で開催予定である。
そんな矢先、パリ現地2018年2月10日午前、セーヌ川の年末からの増水によるアクシデントにより船内に水が進入、アジール・フロッタンが水面下に見えなくなってしまった。その後、関係者のあいだで船を浮上し復活させることが模索されて来たが、1年以上が経過しやや諦めのムードが漂っていた。しかし、2019年3月に公益財団法人国際文化会館からの助成事業が決まり、この資金により「アジール・フロッタン復活プロジェクト」が始動、年末には浮上工事が行われる予定となっている。これまで奇蹟的に100年もの間セーヌ川に浮かんできたコンクリートのアジール・フロッタン、日本との不思議な縁により再び浮き上がれば、それは歴史的にも稀にしか立ち会うことのない本当の奇蹟と言えるのではないか。

 

遠藤秀平