アジール・フロッタン復活プロジェクトⅡ

2021.04.20

1 .復活プロジェクトスタート

2019年3月に国際文化会館と日本建築設計学会との間で、アジール・フロッタンの浮上と修復を行う事業の契約が成立し、4月より「アジール・フロッタン復活プロジェクト」として本格的にスタートした。まずは、当初想定していた予定を書いておきたい。追って明らかになるが、この予定通りには全く進まない理想形である。そもそもセーヌ川に沈んだコンクリート船を引き上げる、それも外国からの支援により実現するなど前代未聞である。しかし当時、私自身はこの未知へのチャレンジをそんなに難問だとは思っていなかった。それよりも15年ほど再生に関わり、沈んだ状態から目をそらすわけにはいかない、できることを行い前に進めるしかないと思い込んでいた。まず当初の予定は夏までに調査を行い、その間に諸手続きを済ませ、秋には浮上工事を行う工程を考えていた。もちろんなんの根拠もない想定ではなく、旧知のパリの建築家フランク・サラマ氏と何度も事前協議を行い、パリでの情報収集によるスケジュール感である。

4月早々、プロジェクト委員会で現地視察などのためパリに飛ぶ。アジール・フロッタンのオーナーと復活プロジェクトの契約を行う目的である。15年前の当初、野球に例えるなら私はあくまで外野の応援団であった。この船を再生し未来へ引き継ぐ役割はパリにいるオーナーである。しかし、今回は実行委員会のメンバーとともにオーナーを支援し浮上を実行するためグラウンドに乗り込む契約となる。具体的には助成金を元に、日本で浮上のための各種の基本設計を行い、調査と諸手続きや実施設計を実行し確認することである。もちろん直接実行はできないので、これらをフランスの専門家に発注し遠隔で管理することになる。パリに到着早々、凱旋門近くにある橋本明弁護士事務所に向かい、現在船の持ち主であるアリス・ケルテキアンさんと面談を行い、事前に確認していた書類にサインをする。儀式が終わると、アリスさんの妹が会議途中で姿を消し買ってきてくれたシャンパンで乾杯、アリスさんから遠藤さんはなぜこんなにも船に支援をしてくれるのか?と問いかけてきた。前川國男が担当したことや2006年にアリスさんのお父さんからシェルターを依頼されたことなど様々な思いが脳裏をよぎったが、「乗りかけた船を降りるわけには行かない」という人生訓が日本にはあることを紹介した。通訳の古賀順子さんがうまく伝えてくれたのだろう、橋本弁護士を囲み一同が笑顔となった。

オーナーとの契約後はル・コルビュジエ財団を訪問し、今後のプロジェクトを報告し協力を要請した。現財団のブーヴィエ館長は、今後もできる限りの協力をすると力強い約束をしてくれた。その後、プロジェクトチーム一行でカップマルタンに行き、アジール・フロッタンの今後をコルビュジエの墓前に報告した。

 

2. 浮上に立ちはだかる縦割り制度

5月に入ると潜水調査を実施した。これは浮上工事を行う前提として事前に潜水調査により工事中の安全を確認しなければならないというセーヌ川運行局からの指導である。これにより安全が確認できれば浮上工事を行うことができ、船としての運行許可書が受けられる。潜水調査の結果、船体に大きな損傷はなくバスケットボールほどの穴が2箇所ほど空いており、ここからの浸水が原因で水没したことが判明。後ほどわかったことだが、岸壁には船を係留するための凸型の金属製の突起物があり、これにぶつかったことで船体の側壁に穴が空いてしまった。潜水調査により浮上工事の可能性が検証され、次はコンサルタントに浮上工事立案を発注する。ちなみに、様々な交渉はパリに出張して私自身が行う場合と、それ以外の現地での交渉はパリ在住の古賀順子さんに代理として多くの仕事をしてもらっている。

7〜8月はバカンスの季節、パリではこの間仕事はなにも動かない。9月になりコンサルタントが立案した浮上計画(この時点の計画ではなんとか秋の終わり11月に浮上工事を行う予定であった)に基づき入札形式で7社から見積もりを取ることになる。しかし、入札に応じてくれたのは2社のみであった。100年も経過するコンクリート船、それもこの時点で1年半の間沈んだ状態である。誰もがリスクが高いと考えて当然である。10月になったころ、2社から1社を選び浮上工事会社が決まる。いよいよ浮上が見えてきた、と思ったところが、DRAC(地域文化行政局)から船が浮上途上で転覆する危険があると言ってきた。さらにこの問題への対応として、船の建築家と呼ばれる専門家のレポートを提出しなければならないことが判明した。なんとか数少ない船の建築家を探し出し、交渉するも意見の食い違いから何度もやり取りすることとなり、依頼から1ヶ月して転覆の可能性の無い結論のレポートがでて、ようやくDRACへ報告書を出すことができた。また、近隣の船主たちの合意もとらなければならないが、隣接する7隻の船主達はアジール・フロッタンの船の浮上を待ち

望んでいると快く合意してくれた。11月も末になり、浮上工事にむけて複数の機関と同時に協議を進める。文化財として管轄するDRAC、セーヌ川の管理を担当する河川局、船の管理を担当する運行局、ル・コルビュジエの著作権を管理するル・コルビュジエ財団も協議に参加し、なかなか複雑である。また、DRACからの転覆問題解決をうけて最終許可を出す会議が予定されたが、このころから黄色いベスト運動が大きくなりパリ市内でも暴動へと発展、会議が延期となってしまった。やや不穏な雰囲気に包まれ始めたが、このころオーナーサイドの水没時の工事費の不払いによる裁判問題、そして同じく水没による電気代と岸辺係留費の未払いが発覚した。裁判に関してオーナー側の言い分は、事故であろうが沈めてしまった仕事に費用は払わない、沈んだ船で電気は使っていないから払う義務はない、などもっともな話でもあるが、これで通用するか不信感を募らせた。そのころ、中国の武漢で新型コロナウイルス発生のニュースが流れていた。

 

3.浮上をはばむ新型コロナウイルス

2020年1月に入るとまたもセーヌ川の水位が上昇、再び甲板が水没し見えなくなってしまった。我々もやや不安になりながらパリ市内での騒動が収まるのを待つよりしかたなかった。コロナウイルスにより中国では武漢が都市封鎖となり、日本ではダイヤモンド・プリンセス号の船内でのウイルス感染が大きな問題となった。2月になるとDRACから工事承認が出され、日本から船で輸送されてきた桟橋(東京のステンレス加工会社のアロイ社から寄贈されたもの)もアントワープに到着し、やや前途が明るく感じられ

た。先に決まっていた浮上会社からもいよいよ工事乗り込みの準備を始めると連絡が入り、期待が高まってきた。4月上旬には浮上するであろうと関係者の間ではカウントダウンが始まる。あとはセーヌ川河川局の工事承認であるが、これも3月6日に内諾がありいよいよ着工かと思っていた矢先、12日WHOのパンデミック宣言、コロナウイルスの蔓延により17日にパリ市のロックダウン(第1回)がだされた。工事は延期となり、これで先行き不透明なトンネルにまたも入ってしまった。秋の浮上どころか春になってもできない。日本でも4月16日緊急事態宣言がだされる。実はこの復活プロジェクトの一環で、本来船の中で2018年に開催予定であった日本人建築家展をこの5月13日からパリ日本文化会館で「かたちが語るとき」展として、五十嵐太郎さんのキュレーションで開催する予定であった。こちらは、同じくパリ在住の飯田真実さん、日本側では石坂美樹さんの懸命なサポートで実現に漕ぎつけたものだったが、これも延期となってしまった。

 

4. 突如船の所有者に指名される

コロナウイルスの拡大のさなか、6月に入ると昨年末より問題となっていたオーナーサイドの裁判がコロナ禍の中でも進行しており、オーナーのアソシエイションの清算が決定となった。なんとしたことか、船主の会社がなくなってしまう、我々のプロジェクトはどうなるのか、またも大きな問題が発生した。裁判所の方針では競売となるらしく、1〜2年は無理ではないかとの憶測が流れる。そこで裁判所に対し水没した船の安全を早く回復する必要などをアピール、ル・コルビュジエ財団も一早い船の浮上を訴えるレターを書いてくれた。8月、それらが功を奏したのか、紆余曲折の末、裁判所から債務を支払うことで日本建築設計学会が船を所有管理するものとして指名をうけることになった。これで浮上を進めることができる。紆余曲折の子細は紙面の余裕もないため別の機会に紹介したいが、しかし、なんと言う顛末か船主になってしまった。一刻も早い浮上を実現しなければならない。浮上工事担当の会社に状況の説明と工事の可能性を打診、何度かやりとりを行う。フランスにおけるコロナウイルスの感染者数もやや下降しはじめたこともあり、9月末になり10月7日着工の工程表を受け取る。10月19日が運命の日、浮上となっている。また、延期となった「かたちが語るとき」展の巡回先オルレアンのフラックセンターでのオープニング10月15日と近いので、浮上工事とともに現地確認ができると喜んだ。

9月にはいり毎日コロナウイルスの状況を見守るが、フランス・日本とも感染者が増えつつある。10月5日、フランスでは最高度の危険度にレベルアップが発表される。この間、五十嵐太郎さんと一緒にオルレアンの展覧会オープニングで挨拶するためチケットを手配し準備万端、国内では海外旅行を控える空気のなか渡仏を断行する気持ちであったが、翌6日に断念する。かたち展とは1960年以降に生まれた日本の建築家(バブル経済崩壊以後に本格活動を始めた世代)を紹介する展覧会である。コルビュジエの元に弟子入りした前川國男(1905〜1986)から半世紀ほど経過した以降に生まれた孫やひ孫世代である。この世代の35組の建築家の作品を主に、模型により紹介するこれまでにない画期的な展覧会であるが、残念ながらオープニングのスピーチはレターとなってしまった。

 

5 .10月19日ポンプアップ浮上

浮上工事は予定どおり19日現地朝9時からポンプ排水作業開始、13時ごろには無事浮上した。日本時間の夕方17時から21時ごろ、逐次映像を送ってもらった。また、パリにあるNHKヨーロッパ総局も浮上の様子を実況中継してくれた。モニターの画面越しでなんとも不思議な感じだが、約1万キロも離れたパリで無事浮上する様子をリアルタイムで確認することができた。この日まで2年10ヶ月の月日が経過したが、4時間ほどのあっという間の出来事、終わってみるとなんとあっけないことか。浮上を直に__見ることができなかったこともあるが実感がいまひとつ湧いてこない。翌日の朝のNHKニュースで現地の様子が紹介され、現地のカメラマンが持つモニターに映る自分の顔をテレビ画面で見るという奇妙な体験となった。少しの間、多くの人からアジール・フロッタンの浮上を共に喜ぶ声を聞き、ようやく浮かんだと

の気持ちが強くなってきた。浮上後、現地では船底にたまった泥の搬出が続いていた。送られてきた映像をみると、さながら雨の戦場で戦う兵士のようにみえる。作業の皆さんに感謝である。そして、なんと30日から2度

目のパリ市のロックダウン、工事続行を心配したが問題なく進めることができた。そして泥との格闘の終盤には、船底から石炭が11個とスコップ1本が発見された。当時の貴重な痕跡である。復元後は船内に展示したい。11月末に

は船内の洗浄も終わり、パリ市のロックダウンも段階的に解除され日常をとりもどしつつある。12月からは夜間の外出禁止令がだされているが船の本格調査が始まった。今回は文化財建築家を中心に構造エンジニアなどが参加し、多様な項目の調査が春ごろまで行われる。現在は2週間に1回、いまではすっかり定着したZOOM会議により現地確認を行っている。思い返せばこの1年間はパリを訪問していない。2019年までは年間に4回程は訪問していたが隔世の感がある。今年もいつになれば現地を訪問できるのかまったく予想ができない。出来れば一刻も早くパリに行き、船内の空気感を実感したいと思う。アジール・フロッタンは戦争難民や経済難民を受け入れるためにリノベーションされたが、現在のウイルスが蔓延する状況では、同じく我々だれしもが感染難民となる状況だと言える。入るべき病院がみつからない、自宅に軟禁状態となる、難民予備軍である。コロナ禍においてアジール・フロッタンが復活したことの意味には、今後を考えるための手がかりとなる使命があるのではないかと思える。復元後の活用イメージであるが、具体的には船全体が3つのコンパートメントで構成されていることから、船首の空間は1929年のコルビュジエのオリジナルデザインへ復元し、ベッドが並んでいる当時の状態を体験できる空間とする。中央部は救世軍が運営していた時からレストランだったが、今後はレセプション機能とし訪問者の受け入れやコルビュジエの資料展示そしてカフェなどが提供できる場としたい。最後に船尾は、展示が行えるイベントスペースとして日仏の建築家展やデザインやファッションなどのイベントのために貸し出す。今後も復元後も運営資金が必要となるが、この企画スペースのイベント利用料により維持費の捻出や寄付を募り、安定的な運用を目指したい。修復と復元にはまだ数年を要するであろうが、今後の世界のありかたを想定しながら活用の可能性を設定し、奇しくも所有することとなったコルビュジエの作品を活かしながら日仏交流の場として後世に引き継ぎたい。ここに日本建築設計学会の新たな役割が求められていると考える。

遠藤秀平