CANON / 正規性 QUANTUMETRIC / 量子的生成
山口 隆
1 はじめに
映画「スペース・フォース」で、長年地球に帰れず火星にいるスタッフが、地球にいるエリンと会話をして、最後に涙して言うセリフがある。「君に教えてあげよう。ここでは涙は浮くんだ。地球と同じ、海と同じ塩分の水だ。地球が恋しい。」
この感傷的で何気無いセリフには重要な意味が含まれている。
地球で生まれた生命は、地球の一部であると同時に、地球の一部を持っている。すなわち、自然界では、全ての被造物は、部分と全体は互いに逆転しながらも入れ子構造のように、細やかに関連して連続している。
自然の被造物は、このように環境とも関係を持ち、全体であり、部分でもある。分子構造であり、物質全般に連関するcanon(正規性)を持っている。
建築も被造物である。しかし、建築(特に現代建築)は、そのようにはなってはいない。何が違うのだろうか。この違いに重要な問題が隠されているように思われる。
現代、あらゆる学の分野において、細分化が進みつつある。
しかし、そうした細分化は、各々が交わることなく、沈殿し、時間とともに硬直化し、固定化した地層の中に留まり、堆積するだけである。細分化の分割数は増加し、極小へと向かい、極小点における正確な特質を浮かび上がらせようとする意志を持つ意味で、微分化と言ってもいいだろう。しかし、この微分化は、各極小点からの視点を持っているが、未だ断片のまま放置されていると思われる。
また、全体を正確に精査することなく、確率論的に近似値を与え断片化させ、それらを集約させる事で全体を把握しようとする動きもある。いわゆる積分化である。
こうした平均化されたバラバラな断片からの視点や、近似化された断片の集約という視点で、果たして全体は補足可能なのだろうかという疑問が湧き上がる。そうした疑問は、先の問題にも繋がるように私には思われるのだ。部分と全体がセットになった微分と積分には、何か重要な意味が隠されているように思われる。
この論考は、こうした微分・積分の問題から発する私の素朴な疑問から出発し、自身の建築論の開示に向かうものである。
特に、現代において、向けられるべき関心は、subjectivityを巡る問題である。しかし、subject を否定するがあまり、object の多様性を強調し、canon は蔑ろにされたことも事実である。
元々、canon とは、(基準)を意味する古代ギリシアの建築術である。彫刻家ポリュクレイトスは、人体の比例関係の研究から、彫刻制作を数学的関係性と結びつけた。音楽や、キリスト教の正典概念にも影響を与えた。西欧では、こうしたcanon が重視されてきた。
建築は、それ自身が全体と無関係に孤立して、単に機能的で美しい単体のobject を追求することだけではない。建築は、思考の結果であり、批評の果実であるが、決して全体から独立したものではないのである。ここでは、その観点に立脚して、次代の建築の概念を考察したい。
最初に、導入として、古代ギリシアの世界観から話を始めたい。彼らは、この世界をどのように見ていたのだろうか。
そして、その後、宇宙を客観的に見ようとした数学の発展の中で、微分・積分がどのように生まれてきたのかを概観してみる。さすれば、そこには、科学者としてではなく、建築家の視点が存在していたことが理解できるであろう。それを出発点として、この言説を始めたいと思う。
2 幾何学と運動
古代ギリシアにおいて、人々は世界を構成している実体として幾何学を求めた。円や球に代表される完全なる幾何学によって世界を把握しようとした。
アリストテレスの『天体論』には、宇宙は、天上界と月下界の二つに区分され、天上界では、生成も消滅もなく、全てが規則的で、運動は完全な等速円運動であるとされた。従来の四元素説に加えて、第五の元素としてのいわゆるアイテールが運動を引き起こし、同心円状に配された円運動の天動説として、宇宙の完全性を示すものであった。
月下の世界にあっては、あらゆるものは、土、水、空気、火の四元素からできているとし、すべてはこれらが結合したり分離することによって、生成したり消滅する。
月下界での運動は、物体の本性に従う「自然運動」と、物体に外力が加えられた場合の「強制的運動」に分けられる。運動は、世界を構成する元素と結びつけられ、土、水、空気、火という四元素は直線運動を生じさせるとした。
各元素には本来それぞれが占めるべき固有の場所があり、それは地球の中心から土、水、空気、火の順で同心球状の層をなしていると考えられていた。そして、落下や上昇といった地上界での自然運動も、元素に基づいて説明されていた。自然運動は、固有の場へと向かう目的論的なものとして理解されていたのである。すなわち、世界を構成する元素には存在すべき固有の場があり、固有の場へと向かう目的を持つことによって生じるとした。例えば、土、水、空気、火には固有の場が存在し、そこに向かって、土は下方へ、 水は横に流れ、 空気は留まり、火は上方に向かう。
運動しているどんなものも何かによって動かされなければならないのである。すなわち、「強制的運動」は外的な力が連続的に加えられた時に発生するとした。力を失えば運動は自然な状態(静止)に戻ると考えたのである。
こうした古代の宇宙観は、未だ運動が解明できていない時代の理念的で幾何学的実体としての世界観であった。
そして、現代から見ると実に覚束ないものと見なされた。この世界観を物理学的観点からの進歩史観によって、劣るものとして見られてきたのである。しかし、ここでは、そうした見方を取らない。
その後、ヨハネス・ケプラーは、惑星に関する法則を発見し、惑星の楕円運動を基本とする天体論に功績をもたらした。しかし彼も幾何学的実体に魅せられていた。ピタゴラス的で新プラトン主義の影響を受け、惑星の軌道の大きさを決定しているのは、プラトン立体である正多面体という幾何学的実体によって決定されているとしたのである。数、比例、幾何学という数学的な実体を求める構築性を堅持していたのである。すなわち、そこには規範としての構築原理から逸脱しない意識が存在していたのである。
3 アイザック・ニュートンの登場
こうした幾何学的実体としての宇宙観や運動理論は、アイザック・ニュートンの登場によって、否定されることになる。ニュートンは、速度という空間と時間との関係性から思考するのである。
そこには一切の仮説を立てることなく、アリストテレスの目的論を否定する事により成立したものであった。すなわち、事物の究極の実体を求めることを迂回して真理を探求する実証主義の態度を取るのである。
ニュートンが発見した微分・積分は、こうした運動という物理現象を記述するための原理を抽出するものだった。ニュートンにおいて、ルネ・デカルトの業績は基礎をなすものとして重要である。
デカルトは延長概念を提示した。延長以外の堅さや重さ、色、匂いなどの感覚的なものはすべて退けられ、純粋で抽象的な物質性を扱うのである。
さらにデカルトは座標を生み出すのだが、ニュートンの世界観は、このデカルトが生み出したカルテジアングリッドの継承であり延長上にある。ニュートンは、運動を説明するために、このカルテジアングリッドを用いる。個々の人間の視点を超えた超越的な絶対者の視点に立ち、それぞれの相対的座標を絶対的座標に集約転換し、絶対的空間・時間を開くのである。すなわち、他の何者にも影響されることのない完全に独立し超越した空間・時間である。一切の仮説を立てることなくと言いながら、唯一仮定したものであった。時間は物体の動きによって生じるものであり、空間は物体と独立して存在するものではないとしたアリストテレスの空間・時間をニュートンは否定するのである。こうして、ニュートンによって、空間・時間はア・プリオリなものとなったのである。
ニュートンは、実体を求める事をやめ、全てを運動の記述のため、デカルトの空間概念を、超越的な絶対的座標系へと進めてしまう。完全なる超越性を肯定しているのだ。ここで重要な事は、絶対的な均質の空間・時間を設定したがゆえに、延長概念を持つ実体が抽象的座標に加算的に重ねられるという測量概念を生み出したことである。測量概念は偏りのない時空間があってこそ成り立つものであった。この測量概念は、宇宙モデルを実体の幾何学として表現するのではなく、実体を持たない超越的な絶対空間というプラットフォームへと変換したからこそ可能となったものである。そのプラットフォーム上に運動を記述する。さらに、カントがなし得なかった人間の経験量を超越的直観である無限量と連続させる事をも測量概念によって成功させたのである。このプラットフォームは超越的絶対空間であるため、無限量も記述可能であるからだ。こうした測量概念は、その後の物理学の発展に大いに寄与する事になる。
こうして、ニュートンが唯一仮定した絶対的な空間と時間の概念は、本人の意図とは関係なく、神の存在証明として受け入れられる。後に、その均質性は教条化していき、モダニズム建築の解決すべき問題点として沈殿するのである。
3.1 微分積分の概念
微分・積分は、ともに無限という概念によって、経験を直観という超越的概念へと向かわせしめる。微分は平均という概念に真正性を与えようとするものである。
微分は、西欧における全ての原初としての比から始まる。df(x)/dx という微小部分の比である。この比は数学的には一瞬の変化の平均、すなわち傾きである。運動学的にいうと、各点における変化量の究極の平均、すなわち速度を表す。
それまで謎だったアリストテレスの運動の概念を、瞬間を定量化する微分によって表現可能にしたのだった。また、微分は、曲線を多くの直線として見ることである。すなわち、接線における接点という極小点に焦点が当てられ、局所的な近傍の部分の属性から極小への属性へと収斂しようとする。近傍の視点から微視的な視点へ向かう。すなわち一点において潜在性を隠蔽するのである。
積分とは何か。積分は、f(x)dx という微小部分の積から始まる。数学的には、瞬間の統合、すなわち微細な部分から始まる拡がり、すなわち面積である。運動学的には、変化の積み重なり、すなわち位置エネルギーを表す。
積分とは、全体を各部分から捕捉するものであり、各部分の総和である。そして各部分は厳密なものではなく近似的なものである。無限に分割する事で、近傍から膨らみ続け拡張していくベクトルを持ち、部分から全体に向かう性質を持っている。
こうした積分化された全体は、すでに近似的な各部分がもつ属性、すなわち近似的視点を最初から孕んでいる。そうした近似的視点の潜在性が無限に細分化し、無限和の全体へと拡がるにつれて、視点の数の肥大化とともに、重要な焦点は散漫化していく過程を経る。
こうした平均化された微分化と、近似性の集積である積分化の方向は、全体を捕捉しているのだろうかという疑問が浮上する。平均と近似性がセットになった微分と積分には、何か重要な意味が隠されているように思われる。
4 前−微分化・積分化
ここで、とある美しい西ヨーロッパの都市を眺めてみよう。この眺めの対象は、特定した都市を選択しているものではない。その特性を強調し、一般化したものとして、架空の都市を想定してみる。
この想定した都市には、canon と歴史性が充満しているため、新たに造るものも、過去の歴史と向き合って造られている。建築物も都市のコンテクストと微妙に調整しながら造られているが、実は一番重要な事実は、こうした美しい都市が、微細な部分である建築エレメントの集積によって構成されている事である。この都市における建築物は、比、幾何学という数学的関係で構築されたcanon が存在している。黄金矩形に内包された無限概念、柱と柱の間隔の比、横と縦の比、これらは、建築におけるコンポジションの基本となっているのだ。この事は微分・積分の基礎概念が既に含まれている事を意味する。比は微分の基礎となり、無限概念は微分・積分の基礎となるものである。たとえば、黄金比は極大と極小へと向かい、人間界を超えて、無限の宇宙に連続していこうとする神の摂理を表象している。さらに、建築物の全てに神の摂理を充満させようとして、部分と全体が整数によって割り切れるというシンメトリアによって、建築物は構成されている。そのため、建築物は細部への関心を持つ。
いわゆる建築生成において、細分化が根底にある。そうして数学的に細分化された建築物の微細な各部分は、他の部分と関連をもち、さらに建物全体との数学的整合性によって生成されていく。そうした数学的整合性は、周辺を鏡像関係で構成していく。このように近傍の建物群との関係を調整し、周辺エリア、さらには都市全体まで連続していく。このことは、前-微分化・積分化とも言える細分化・重積化プロセスを、この都市全体が保持していることを示している。
これによって、全てのスケールに渡って数学的に生成する事が実現されているのである。したがって、普遍化が担保され、自己参照性が可能となり、結果、相似性の反復と増殖により、歴史的なコンテクストを生成することが可能なのである。
さらに、この都市は、volume が平板的に拡がり、そこに対称性を持った求心的なspace が、そこかしこに存在している。ウィトルウィウス的身体を基準とした比例から、一定の寸法システムが守られ、一定の高さを持つ平板的volume を形成している。建築や都市も人間身体と連続するcanonical な数学的volume として捉えられているのだ。一般的に、西ヨーロッパの都市は、こうした数学的volumeが拡張した構築性を担保しているのである。
外部空間としての広場だけでなく、大聖堂の対称性を持った内部空間としてのspace も存在する。また街路というリニアなspace も存在する。そうしたspace が建築物としてのvolume と明確に区分されているのである。非可触的なspace は、可触的なvolume と連続し、ゲシュタルト的に反転可能となる。この二つは、都市全体において、反転しながらも、ある意味トポロジカルに連続していると言えよう。この都市には、そのようなcanon としての数学性が存在している。そうした規範的な数学的相似性が、都市に存在するから、明確なコンテクストを持ち、都市は美しい様相を保っているのだ。決して、個々に美しい建物を加算的に並べているから都市に美が宿るのではない。都市の生成において、canon をベースとして、対称性と前-微分化・積分化のシステムとしての比例が施されていることが、統一美が生成されている要件なのである。
そうした都市の数学的構築性が強固に支配しているため、安易に数学的コンテクストから逸脱した建物を建てる事が出来ない。醜い不協和音が出てしまうからである。音楽と同様である。明確なcanon が厳然と存在しているのである。ピタゴラス的比率から始まった音楽も数学的に構成されているため、気まぐれに逸脱したものは醜悪なものになるからである。
5 無限概念の導入
現代都市を眺めてみよう。それはNY のマンハッタンが象徴し代表するように垂直性が特徴である。垂直性はいわゆる資本主義の表象である。資本主義の過剰な欲望がオフィスビルのvolume を垂直に伸展させていく。過剰は無限という概念を細分化と重積化の概念に呼び込み、前-微分・前-積分の概念を微分・積分へと移行させる。そして、この新たな微分・積分の概念に裏打ちされた新たな現象が現出するのである。すなわち、前-微分・前-積分の概念にとどめられていた問題を噴出させるのである。
このシステムは、高さ方向のパラメータだけが異常に膨張し天高くスイープ註1) していく。このシステムは、テクノロジーを手段にしながらも、同時にテクノロジーを表象しているのである。資本主義は、すべてを平均化し、近似的に捉え、共通なプラットフォームで人々をコントロールしようとする。ニュートンを起源とする均質な絶対空間を基礎として、固有な場を消失させ、どこでも成立する合同形のgrid を基本に、空間のユニットは生れる。微分化によって平均化され、それが積分化される事で、全体は構築されていく。この拡大するシステムは全てを呑み込んでいく。すなわち経済性を重視した均質なgrid を基準とした建築が世界中に造られていくのである。それは、人間の多様で雑多な欲望が資本主義のシステムにより平均化され、形式として微分化された上で、近似的に整理されたプログラムにより、高さ方向にだけ過剰に積分化されていくシステムである。ウィトルウィウスが示した人間の身体性からくる基準のvolume やspace ではなく、経済効率によって標準化されたフロアーユニットが一様に積み上げられ、垂直方向に異常に伸展していく。そこには伝統的なcanonical な形式をも崩していくパワーが存在する。それはまさに資本主義に押し上げられたテクノロジーによってのみ成立する歪な積分化の世界である。平均的垂直性という抑圧が拡張した世界が出現するのである。
ジャック・ラカンは、精神分析において、欲望を三つに分別する。すなわち、
欲求(besoin):生命維持のための身体反応、基礎的な欲求。
要求(demande):欲求がシニフィアンの形式で求められ、言語的に分節されたもの。
欲望(désir):欲求と要求の裂け目において構成されるもの。
この定義に従うと、要求(demande)がますます言語化され、現代は、グローバル資本主義の言語により、欲求(besoin)と要求(demande)の裂け目が大きく開き、その裂け目で欲望(désir)が過剰に構成され、肥大化してきている。さらに、欲望(désir)が、IT テクノロジーにより操作され始めてきている。建築は、こうした欲望(désir)をベースに生成され始める。このため、現代の建築や都市は変容し始めてきているのだ。
ここに微分化と積分化という双方向のベクトル的思考は、建築や都市の生成にとって、非常に重要であるが、単なる欲望を加速させるデバイスとなる可能性があり、性急で無頓着なものとして加担する。現在の建築設計において、部分と全体との関係は、平均というコントロールしやすい近似的な枠組みに支配されている。ゴットフリート・ライプニッツが嫌悪したように、全てが同質で満ち溢れたニュートン的世界(均質なgrid による合同性)を普遍的に拡張しようとしているのだ。
過剰な利潤を求めるために、人間の欲望を解放することで、多様な文化や歴史を画一化し、人間自身を単純化する方向に転向させたとも言える。モダニズムとはそうした流れにあるものであった。モダニズム建築は、欲望を加速させるテクノロジーに仕える従者となってしまった。しかし、建築は、本来、こうした枠組みを超え、多様性を包摂する新しい生成システムを構築するはずのものであった。
こうした建築の方向として、ミース・ファン・デル・ローエは重要な位置を占めるものと思われ、示唆に富む概念を提示している。以下に詳述していきたいと思う。
6 現代建築におけるミース・ファン・デル・ローエの位置付け
近代化は新たな生産が出現し続け、膨張する巨大なエネルギーを持つ。subject すらも、この過程に完全に組み込まれる存在として位置づけられてしまう。
ミースは既に、モダニズムの原理の発見者・実践者として存在していた。本人が意識するかどうかに関わらず、subject の存在が背後に退き、近代化の流れに呑み込まれようとしていた。
6.1 ミースの作品における微分化と積分化
プログラムによる form 生成の萌芽
近代は、常に「新しいもの」の創造を求め、過去に生成された諸形式を解体させようとする論理が存在している。同時にまた、モダニズムとは、あらゆるものをフラットに交換可能なものとする均質化のプロセスでもある。ミースは、距離の普遍性や位置の絶対性を定義するニュートン的絶対空間から自身の空間を出発させており、ニュートン的微分・積分の思考が根底にある。
ル・コルビュジエは、部品化された不連続な空間を集積させることで豊穣性を求めた。しかし、ミースは平面へと単純化することで、内包する多様なパースペクティヴにより逆説的に空間の豊穣性を獲得したのであった。
6.2 バルセロナ・パビリオン 1928-29
ここには古典主義的な関係性はない。ここで言う古典主義とはマテリアル、構造、テクトニックの関係がきっちりと分節されていることである。バルセロナ・パビリオンは平面のみで、それがスイープして出来上がっている。平面の情報だけで建築を把握することができる。断面はパラメーターにしか過ぎない。平面に高さを与えたらできるような、ある種パラメーターに委ねた設計手法である。そうした意味で、後のコンピューター・プログラムによる数学的形態生成を予見しており、その原点ともいえる。
また、それぞれ自立する壁は非物質化され、マテリアルがマッピングされている。面としての壁が自立している。それは、意味を消失させた壁の自立であり、そこに伝統的な構成の壁は存在しない。力を支えるものとしての壁がない。
切り取られた構成主義的な壁が存在するだけである。ガラス・床・天井・壁が抽象化された建築の要素としての点・線・面が存在しているだけである。それは柱を規準とした古典主義と両義的というよりも、むしろ、古典主義の枠組みから離れ、完全に異なるものになっている。機能的なプログラムというよりも、空間が生み出されるプログラムそのものである。それが機能的なプログラムとしての多目的スペースを包含しているといえる。プログラムとしての多目的スペースという均質空間を創造しているわけではない。
さらに、ロマン的古典主義から出発しながらも、脱却してシュプレマティスムのイメージを作り出し、平面のイデア性を提示した。それは、骨組みでもなく、grid でもなく、平面が、パラメトリックに垂直にスイープした空間である。平面という絶対性によって透明性が出現しているのだ。断面はパラメーターとして背後に隠れる。こうした断面の不在によって、梁という概念はなく、抽象的な面が連続していく。平面が重要で、イデア的なものは平面に宿っているのである。したがって、平面は純粋化された存在である。断面は、背後に潜み、補完するパラメーターにすぎない。ミースは、ル・コルビュジエのドミノ・システム以上に平面の原則を厳守しているとも言える。註2)
しかし、そこには、ニュートン的微分・積分の思考が根底にある。近傍の時間において全体を微分する行為である。そして、微分化されたものを、今度は積分化していくのである。そのプロセスにおいて、近傍化された時間は普遍性を持ったニュートラルな時間へと改変される。そういう行為には、単一的なプログラムによる積分化が潜んでいる。時間を凝固させた平面的フラグメントを積分化し、近傍に流れる時間のみのパラメーターによって、object を生成させているのである。すなわち、平面にパラメーターを与えること、そして、面へのマッピングである。ニュートン的微分化と積分化の過程において、操作し易いもの以外は捨て去られてしまっているのである。ピーター・アイゼンマンのように遠い過去からの時間性を取り入れる知性としてのsubject の存在は蒸散しており、またobject の存在理由すらも蒸散してしまっており、批評性としての時間性はない。あくまでも、object を成立させる近傍の時間だけに縮減しているのである。すなわち、プログラムの萌芽であり、subject やobject に対する問いかけを無視してプログラムしているという意味で、後に発生するプログラム原理主義註3)に影響を与える起源になったものとも言える。
6.3 ガラスの摩天楼
ミースが個人として仕事をはじめた頃のプロジェクトであり、その後の方向性を決定するものであった。これらの作品を見ても分かるように平面がそのまま立ち上げられている。どちらも断面はいじらず、平面形状を変えている。平面はgrid の呪縛から脱し、結晶型や流動曲線の周囲に拡がる平面形状となっている。
当時のテクノロジー的な制約などからこうした断面形式になったことを鑑みたとしても、その後のバルセロナ・パビリオンやファンズワース邸ではそのようなテクノロジー的な制約はほとんど受けない規模の建物であることにも拘らず、同様の手法であることから、より概念的な精練から立ち現れているものであるということが理解できる。すなわち、ニュートン的な微分化と積分化である。断面の存在を背後へと隠し、パラメーターとして扱おうとする概念的な試みが読み取れる。そうした意味で、これらのガラスの摩天楼のプロジェクトにおいても、そうした概念的探究の一端を認めることができると言えるであろう。
ミースは平面に全てを還元した。そのことは平面が建築をコントロールすべきであるとするル・コルビュジエの意識とは全く異なっていた。ミースは、建築の全ての運動性を、スイープというプログラム的な運動性へと還元させただけであった。そこには、ル・コルビュジエのように、建築はエネルギーや運動性が充満するものであると捉えるものではなかった。そういう意味で、ミースの平面は、ニュートン的絶対空間に寄り添い、それを超えて、プログラムを孕む平面と言っても良い。平面を断面パラメーターによってデバイス化させ、建築の全てをパラメトリックなプログラムに還元させたのである。
6.4 ミースの建築に秘められた問題
時間性の問題から批評性の問題へ
ミースは近傍の時間性しか存在しないobject を現出させただけであった。美学的なobject の成立には成功したが、建築にとって重要な批評性を孕むことには失敗した。
6.5 プログラムの問題
ミースの建築は、現代におけるプログラムの問題と繋がるのである。なぜなら、プログラムは、近傍の時間性を導入しているが、anteriority という過去の時間全体を考慮するものではないからである。
近傍の時間だけに着目することは、機能性への支配下に屈することを意味し、それは資本主義へ屈する事へと繋がる。この流れはプログラムへと繋がり、ますますanteriority や批評性とは無縁のものになる事を意味している。
そのことは、建築を射影として捉える考え方へと繋がる。つまり建築の内部性の探求を放棄し、それよりも外部性を建築に写像する事だけを求める考え方へと連続するのである。つまり過去からの時間との決別。過去はアーカイブとして存在するだけで良しとする考え方である。そこには批評性は存在しない。過去をアーカイブだけにして封じてしまうと忘却するだけである。そうならば、AI で再利用するようなテクノロジーの支配下に置かれる事を良しとするのか。そこにはsubject の存在は見えない。ミースの意識は、粛々と近傍の時間性における職人的なテクトニックへと向かうのみであった。
こうした動きは、ミースのテクトニックな意識を超えて、プラスチック(可塑的)なプログラム原理主義へと変貌していく。そこには、もはやcanom が存在しない、むしろ否定する動きとなるのである。それは、ル・コルビュジエの可塑性の概念からの流れでもあるが、新しいテクノロジーに翻弄されたムーヴメントであった。
ここで、ニュートンとは異なる視点を示したい。同時期に微分・積分を提案したライプニッツの思考である。同じ微分・積分という数学的業績を開いたにも関わらず、ライプニッツの思想的構えは、ニュートンのそれとは異なっていた。
7 ゴットフリート・ライプニッツの視点
ライプニッツのアプローチはニュートンとは異なっていた。ニュートンのように、単に数学的世界に埋没するのではなく、豊穣なる批評性を孕んでいた。
三十年戦争によって、神聖ローマ帝国とローマ教皇を中心とした西欧中世体制が終焉していくのを目の当たりにして、人々の精神の救済のため、ライプニッツは、世界を統一するための神の摂理を探求する道を選ぶのである。そこには事物の究極の姿に対する希求が存在していた。彼は究極の実体へと向かう細分化された幾何学を探求した。すなわちモナドである。
7.1 ライプニッツのモナド
ライプニッツは、世界は、それ以上細分できない微小単位に到達するモナドによって構成されると考えた。すなわち、ライプニッツは、細分化された究極の微小単位の写像として神の摂理を求め、微分・積分を考案したのであった。
モナドとは、神の摂理が部分から全体へと連続する極大と極小の一致をさらに極め、無限へと限りなく向かい、連続する無矛盾の究極的完全性を求めるものだった。このモナドによって、世界は真なる秩序をもって統一され、神の存在が明らかになるとして、絶対的な実体の秩序であるモナドで、世界を説明しようとしたのである。
モナドは、延長という概念を持たない最小単位の実体である。そこにはすべてを引き出す力が存在する。ライプニッツは、世界を開く力を持つ微小単位に留めておこうとする構えをもつのである。
ライプニッツは、モナドに関して、「正確な意味での自発性(spontaneité) がわれわれを含め、すべての単純実体に共通に具わっている…」註4) と述べている。
ライプニッツは、自然法則の根底に神の形而上学を据えようとした。それは物質に着目したものであった。物質の根底に魂、モナドという精神的な実体を置き、全宇宙をそれ自身の中に表出するという形而上学を打ち立てるのである。重要なのは、ニュートンが否定した実体への着目であり、自発性という「力」への着目である。
容器としての空間に、独立した事物が存在するのではなく、事物そのものであり、その連続した系列のすべてなのである。すなわち、ライプニッツは、ニュートンの超越的な絶対空間・時間そのものを否定したのである。
ジル・ドゥルーズは、ライプニッツが開く世界を「無数の点において無数の曲線に接する無限の曲線であり、唯一の変数をもつ曲線,あらゆる系列の収束する系列である。」註5)と述べている。
これが、ライプニッツの微分の概念である。限りなく近くづくが、無限小の彼方へと消失してしまうのではない。最小単位という所で留まりながらも無限に連続する系列だとしているのである。これはライプニッツが、力を生み出す実体を探求していたからに他ならない。
7.2 空間の捉え方の転換
ライプニッツの空間の捉え方は、ニュートンとは異なっていた。全てにおいて、真逆であった。
ニュートンは、運動を記述するために、絶対空間・時間の先在性をア・プリオリなものとして仮定した。運動は座標空間に記述され、時間概念を先在させることで、運動を説明するためである。
しかしながら、ライプニッツは、超越的な時間と空間の先在性の仮定を否定する。
ライプニッツは、「空間、時間、拡がりこそが、いつも世界の中にあるのであって、その逆ではない。」註6)
ライプニッツにおいては、世界とは、空間や時間が先在し、その後に事物が置かれるものではない。逆に、時間と空間は、事物に満ち溢れた世界に在るのだとする。
このことを、ドゥルーズは,「所与が空間のなかにあるというわけではなく、むしろ空間が所与のなかにあるのだ。空間と時間は所与のなかにある。」註7) と述べている。
すなわち、ライプニッツの思考には、ニュートンの絶対空間のようなア・プリオリで超越的な時間と空間を仮定し、その仮定のもとで運動性を記述するという方向ではなく、空間が持つ力の表出を求めようとする意志の態度が見出される。空間自体が秩序に満ち溢れた関係性をもっているものとするのである。さらにその関係性は、生成の源である差異性が現れているものだとする。すなわち、空間に対して、ニュートンは運動を記述するものであり、ライプニッツは記述を超えた運動の生成原理を求めたものであった。したがって差異性の欠落した同質性だけが無限に拡がる単純な絶対空間ではないとして、ニュートンの絶対空間を退けるのである。
ニュートンは、空間を単に運動を物理学に還元するための基準として考えていたに過ぎない。その基準は、後の物理学を拓くベースとなる事に大いに貢献する。しかし、一方、それは均質性という単純化の方向に向かい、現実の豊穣な事象を、すべて捨象していくものであった。その事がモダニズム建築に影響を与えるのである。
ニュートンの微分・積分のアプローチが物理学としての道具であるのに対し、ライプニッツのそれは、力の源泉や所在を求めるという、神の証明のためのものであった。そして、その考え方には、時代を開く重要な種子が孕んでいた。それはドゥルーズ によって開かれる。
7.3 ジル・ドゥルーズの眼差し
ドゥルーズは、差異性を重視したライプニッツに着目する。ドゥルーズは、『差異と反復』で、徹底して、「同一性」を否定し、「差異」による世界把握を追求する。
ドゥルーズは、「反復の中でこそ、反復されるものが形成され、しかも隠される。」註8)
ドゥルーズは、無限に反復することによる、何かが生成される可能性に着目している。その何かが差異であり、それを生み出す仕組みとライプニッツのモナドとを重ね、重視したのである。
ドゥルーズは、微分・積分が運動を記述するために転写されたニュートンの超越的世界ではなく、ライプニッツのモナドが運動を表出させる源泉としての力を捉えている事に関心を持ったのである。
いずれにしろ、微分・積分は、旧来の静的で完全なる数学的比例によって成立する静止した幾何学とは異なり、比例に無限の時間性を持ち込み、新たなパラメーター世界へとシフトさせたことは事実であった。そのことは、ルネサンス様式という均整と調和のとれた静的世界から、運動という変化する動的世界へと移行を促したのだった。その影響は芸術全般に渡り、「歪んだ真珠」と言われるバロック芸術を生み出す。
7.4 新たな主体subject の発見
ドゥルーズは、1988 年に、重要な著『襞-ライプニッツとバロック』を発表する。
「バロックはたえまなく襞を折り曲げ、さらに折り曲げ、襞の上に襞、 襞にそう襞というふうに、無限に襞を増やしていくのである。バロックの線とは、無限にいたる襞である。」註9)ドゥルーズによれば、「襞の理念的な発生的要素とは屈折 (inflexion)」である。 屈折は, 内在的 特異性 (unesingularité intinsèque)、線と点に関する純粋な〈出来事〉 (lepur Evénement) であり、〈潜在的なもの〉(le Virtuel)、とりわけ理念性 (l’ idéalité) である。注意すべきは、屈折は「世界の内部にはない。それは〈世界〉(le Monde) それ自体であり、むしろその始まりである」註10) ということだ。
ドゥルーズは、微小な実体へと向かうモナドに着目し、モナドによる世界の言い換えを行なう。
ドゥルーズによれば、「襞の理念的な発生的要素とは屈折(inflexion)」であるとする。すなわち、絶え間なく折り畳まれていく襞は、屈折を発生させ、世界を形成させる。屈折そのものが動的変化する世界でもある。そして世界は出来事として理解される。すなわち静止した「object」から動的変化する「event」への転換であった。
バロックとは、こうした動的変化による屈折の歪みの表象に過ぎない。ドゥルーズの「襞」とは、まさしく、こうした歪みを掬い取ったものである。この新たに出現したバロックの歪みの世界を、旧来の完結な一枚の幾何学平面ではなく、複数の面が折りたたまれた錯綜する襞として読みとったのである。それは、ライプニッツの思考に寄り添うものであり、ニュートンの超越的で均質的な座標空間ではなかった。
こうして、ドゥルーズは、古典的な完結した求心的世界を崩した後に現れた絶対的で均質化された世界をさらに崩すものとして、ライプニッツのモナドを通して、差異のフィールドである「襞」の概念を提示するのである。豊穣な意味を発散消失させた中性的なニュートンの絶対空間ではなく、新たな創出が生成される差異のフィールドとして襞を提示したのであった。隠蔽と開示が錯綜する豊穣なるもの、それは紛れもなく襞であった。
ドゥルーズは、subject について述べている。
「…それは観点とも呼ばれる。遠近法主義の根拠とはこのようなものである。遠近法主義は前もって 決定された主体に依存することを意味するのではない。逆に、観点のところにやってくるものが、あるいはむしろ観点にとどまるものこそが主体である。…つまり主体 (sujet) とは下におかれるものではなく、 ホワイトヘッドの言うように「自己超越態」(superjet) なのである。」註11)
遠近法の概念を使って、subject の姿をドゥルーズは描いてみせる。すなわち、遠近法の概念は、subject の視点が前もって決定されて眺めていることを意味しているのではないのである。逆に、観点のところに眺めている世界から落ちてくるものがsubject を構成しているのだ。すなわち、観点に集まってくるものこそがsubject を構成するという逆転を示すのである。主体 (sujet) とは下におかれるものではなく、 ホワイトヘッドの言うように「自己超越態」(superjet)なのであるとする。
すなわち、ドゥルーズは、subject とは構成されるものであるとの見方をする。
「そして知覚は、把握する主体にとってのデータである。この主体が受動的な効果=結果を被るという意味でそうなのではなく、反対にそれが潜勢的なものを現動化し、その自発性のおかげで、潜勢的なものを客体化するという意味でそうなのである。」註12)
subject とは、襞の中で、折り返し、変異されるのである。
subject は予め存在するものではない。様々な現実が把握され統合されるとともに、様々な観点が呼び寄せられ、subject は構成されるのだとするとして、知覚とはデータの収集であり、subject はデータが集められる場であるとする。subject とは、常に新たなデータを集め、書き換え、過去を参照しながら未来へと投影し、照射していく運動そのものである。それは旧来の人間主体というsubject 概念を超えて、プログラムに近接する概念となっている事を示している。
こうして、ドゥルーズによって、強大なるsubject は見直され、世界は、もはや強大なsubject からの照射で生まれるものではないことが示されたのである。ドゥルーズは、差異が生み出すこの力動性をライプニッツの思考に見たのである。ここに、世界は、超然たるsubjectの存在という絶対性を持つのではなく、静的で均質なフィールドにobject が存在するものでもなく、差異に満ち溢れた動的なエネルギーの流動体を孕む「event」の連鎖のフィールドになったのである。
このことは、ある種の問題を孕んでいた。canon の否定を進めるからである。subject の問題を解決すると同時に、subject の地位を落とし、プログラムだけに焦点が当たることになったのである。流動体としての運動を補足することが可能にはなったが、過剰なプログラムへの過信という欠陥を孕むのである。この意識が、安易にコンピューター・テクノロジーに依存し、結びつき、建築のcanon を破壊していくのである。さらに、日本では、資本主義の市場原理が作家性を持ち上げ、捻じ曲がったsubject がcanon を破壊することを示すという逆転現象も見られることになる。こうした問題を受けて、自身の立場を表明するためにも、自身の建築概念を明らかにしたい。批評家ではなく建築家として、私自身の建築概念を示す責任があると思われるからである。
8 自身の建築概念の背景
自身のプロジェクトを巡って、次なる問題点として浮上するsubject の在り方について考察を加え、自身の建築概念について触れたい。それは、subject とobject の構造関係の変容であり、動きうる多様体に関するものである。それは、外部性のいかなる状況にも対応でき、多様に変容することが可能な生命体ともいうべきものである。そうした概念について考察を加えたい。
私の建築概念の原点は、新古典主義がベースであった。モニュメンタル性を求め、完璧な幾何学性を追求するものであった。当時は理想主義的抽象性を具体化することが建築の使命であると信じていた。平面は理想としての地平を素描するものであり、徹底的な整合性を持ち、数学的比例関係で完璧に構成されなければならないと思っていた。そして断面によって、理想的抽象性が空間として現出するものとして捉えていた。学生の頃、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『幻獣辞典』に登場する幻獣に因んだ作品、「ア・バオ・ア・クーの覚醒」を制作した。
「勝利の塔」の下には、ア・バオ・ア・クゥーが眠っており、屋上に向かう螺旋階段を上り始める者が現れると幻獣は覚醒する。ア・バオ・ア・クゥーはその人間の影を捉えて、螺旋階段をその者の後に付き添い登っていく。透明であった幻獣の姿は一段上るごとに色と輝きを増していき、最上段まで登ったとき、ア・バオ・ア・クゥーは完全な姿を現す。しかし「勝利の塔」を登り切った人間は涅槃に達することができ、いかなる影も落とすことはない。つまり、ア・バオ・ア・クゥーは影が見えないので、その人間を捉えることはできないので屋上まで上り詰めることができない。
完全な姿になれなかったア・バオ・ア・クゥーは苦悩にさいなまれ、色も輝きも身体も衰えていく。上っていた人間が下り始めれば、ア・バオ・ア・クゥーはたちまち最下層まで転がり落ちてしまう。
「ア・バオ・ア・クーの覚醒」は、涅槃という理想に向かって進む者とそれに従う幻獣の苦悩という相反する悲哀にかけたものであった。
このドローイングには、相反する思考の痕跡が現れている。今から振り返ってみると、奇妙な事に、完璧な整合性ではなく、整合性を一部崩したエロティシズムの発露が平面に存在し、一方で整合性を崩そうとする意識が垣間見られる。すなわち、canon を追い求めると同時に、それに取り込まれる事を良しとしない意志が混在していたのだった。こうした背反する意志の混在が、私の建築の原点であると言える。
次に、ベルリンシュプレーボーゲン都市開発国際コンペティションの提出作品Void Centers 及びCyberspace asReference Space がある。これらは自身の建築概念の変曲点となったものである。
8.1 Void Centers / 1992
1988 年、メンバーが離れて存在するテレコミュニケーションによって建築デザインをおこなうインターナショナルな理論研究グループが結成された。
そのグループはARX と呼ばれた。正式名称は、造語であるARchiteXture ( ARX )。architecture、texture、text の言葉からなり、建築は言葉であり、グローバルネットワークに展開する織物であるというARX 自身の概念を表出するものであった。複数のsubject はメルト化される。旧来の作家性概念を解体するためのものであった。通常の身体速度を超えて、加速された状態で繰り返し通信すること。さらに構成メンバーの間において、form をメルト化させる。
ARX は、複数論理の概念をさらに一歩進め、この考えを設計プロセスとして確立した。そして、複数メンバーの異文化からの発案を1 つのプロジェクトへと重ねた。プロジェクトの結果は、妥協という総合的な産物ではなく、むしろ亀裂、不均衡、差異であり、多文化社会の美しさと豊かさの違いを明らかにしたものであった。
1992 年に、複数のsubject がテレコミュニケーショナルに相互干渉する手法により、ベルリンシュプレーボーゲン都市開発国際コンペティッションに入賞し、ARX の理論を具現化した。
コンペ案のコンセプトは、多くのアイデアが詰まったものになっていた。脱中心主義、作家性概念の解体、同一時間でありながら異なる場所に存在する異なる文化・思考を持ったsubject 群の並置。都市に交差する共通項の設定によるinteriority( 内在性) とanteriority( 先在性)、 interiorityとexteriority(外在性)との連続性。時間性を抽出したdiagram、diagram にパラメーターを挿入する事などが試みられた。
このコンペ案は、建築的にはdiagram によって生成したフラグメントを脱中心化させ発散させるものである。都市に交差する関係性をdiagram として介在させ、パラメーターにより、建築・都市構造を生成したものである。時間性を孕んだ敷地が有するモチベーションを抽出したのであった。
8.2 参照空間としてのサイバースペース空間
Cyberspace as Reference Space のテキストは、知性を持った粒子による生成概念であるquantumetric(量子的生成)の原点になったものであり、subject-object の問題を発展させたものとして認識している。また今日のミラーワールドやメタバースの概念にも通じ、それを予見するものであった。
一つの試みとして、現在の著者であるsubject、そしてobject、過去から受け取る沈殿したsubject 間の関係に焦点を合わせ、他者性の視点を持ったエージェントとしての働きを持つ自律的プログラムを提案する。この自律的プログラムは、subject とobject との間に介在する参照空間として提示される。それは外部性における諸条件と建築object との間の関係の沈殿を、抑圧ではない未来へ向かう可能態として格納するものであった。
生物は、情報を遺伝子という分子構造に物質化させている。すなわち、生物はハードウェアの呪縛にあるということができる。ところが人間は、物質化ではなく、電子的ネットワークが作り出す仮想性を手に入れた。言わば、情報と物質との分離に成功したのである。この仮想性に存在する新しいdiagram を提案するものであった。diagram は二次元的な図表から出発したが、三次元を越えて時間性を含んだ多次元となり、情報を格納する多次元的マトリックスとなるのである。それは、決定された固定化したプログラムではなく、自律的に改変可能なプログラムでもある。
ここでは、エージェントとしてのAI による参照空間を策定している。この参照空間は、単純にビッグデータを集めれば良しとする標準化を超えるものであり、subject とobjectとの間に介在させる事を目的としている。
現実世界と仮想世界とが、鏡像関係に位置し、互いに呼応して、それぞれが連続していく。連続性の流れは、現実と仮想との間にも生じてくるのである。そのことを、このプロジェクトは示していた。
ここでは、積分化の際に自律的プログラムを挿入すること、さらに再微分化においても自律的プログラムを挿入している。最も重要な事は、プログラム自体に焦点を当てるものではなく、そうしたプログラムを実装させるプラットフォームを形成することに焦点を与えたということである。
すなわち、このプロジェクトは、人間が、他の生物の限界を超えた存在となったことを示している。生物は遺伝情報を、DNA というヌクレオチドという有機高分子に格納する。それは情報を物質化させることである。しかし、人類は、それを超えて、肉体を構成する物質以外のプラットフォームにも情報を格納することを可能とし、全く新しいアナザーワールドを切り開いたのである。このことの重要性は大きい。将来には、遺伝情報も、こうしたプラットフォームに格納することができ、DNA や肉体とリアルな物質世界とアナザーワールドとの往復運動が可能となるであろう。
9 デュルーズ / ガタリの「抽象機械」の概念による影響
diagram の概念は、J.N.L. デュランをはじめ、ル・コルビュジエ、ミース、アイゼンマンを通して進化してきたが、アイゼンマン以降においては、ドゥルーズ / ガタリの「抽象機械」の概念による影響が大きく、建築を社会的な外部条件に適応するべく、外部性を建築のプログラムに取り込み、未来へとプロジェクションするという楽観的側面が強調され、新たにプログラム原理主義という立場が出現する。人間の存在としての subject を消去し、建築を自動生成するというオート・ポイエーシスの立場である。こうした動きに対して、アイゼンマン以降の建築家達は不思議な事に、危機感や疑問を持つ事なく、突き進んで行く。彼らは、subject と object の位置を、その支配関係を、ただ逆転させているだけである。次の世代は、この部分に過剰に反応し、subject の存在、すなわち人間の存在自体を忘却していくのである。
私の建築概念は、こうした動きに対する抵抗でもある。
9.1 知性としてのsubject の策定
建築はあるsite に成立するものであり、必ずそのsite をとり巻く外部環境が存在する。プログラム原理主義者が望むような素晴らしいプログラムによって生成された建築であったとしても、外部性の影響を受けるのであり、内部性は外部性とどのように折り合いをつけるのかという問題が残存する。内部性によってつくられた建築は、伝統的にデアテシスという場所の原理により、外部性との関係が問われてきた。しかし、そうした場所の概念は過去のものとなってしまったのである。建築の外部性と内部性を連続させなければならないが、外部性をオーセンティシティーなものと捉える伝統的な立場から離脱しなければならない。そうしたものは建築の新たな創造を捉えることができず、逆に新たな抑圧を生み出すものとなるのである。従来の場所性に回帰させることではなく、内部性と外部性との関係をいかにとり結ぶかということを検討しなければならないのである。
アイゼンマンの業績は、ロウの流れを受けて、さらに極めて知的な方向へと問題をシフトさせた。アイゼンマンは、知性としてのsubject を策定したがゆえに、歴史に沈殿する知の総体としてのanteriority や建築内部に存在するinteriority を想定せざるを得なかった。研究している過程で、アイゼンマンが内部性として見たものは、実はsubject が生み出した意識的抽象性という幻影だったのではないだろうかという考えが生まれてきた。アイゼンマンのdiagram とは、そうした知性を先鋭化させたsubject の存在によって成立するものであったとも言える。それは、批評性の美と知性の閃きを表出するものであったが、凡庸な人間には理解困難で、普遍性をもつものではなかった。それは、また、安藤忠雄の直観・感性というsubject のブラックボックスとは真逆でありながら、同一平面の裏表に存在するものであった。しかし、感性ではなく知性としてのsubject の存在を策定した事は、建築が成立する背景の文化や歴史を見つめる態度を重視することになり、クライアントの欲望の支配から逃れることが可能となるのだった。
私の建築概念は、安藤やアイゼンマンにおけるこうしたsubject の問題を継承するものであった。知性としてのsubject が生み出す意識的抽象性を前提とするものである。建築が知性としてのsubject によって成立しながらも、それを超え、意識的抽象性以外のエレメントを回収する方向に進むのであった。そのことは、architecture をいかに捉えるかという問いを投げかける以前に、人間をどのように捉えるかという問題へと繋がっていく。古典的概念では、人間を数比関係という寸法という次元で捉えた。その事で、極大・極小の宇宙との連続性を求めた。それは神という絶対的な超越者のもとに神学的宇宙観を求めたからに他ならない。しかし、その神の座を人間は奪う事になる。絶対的な超越者が有していた理性的特質を人間は受け継がなくてはならなかったのである。そうして、全てを見通す力の源泉として理性的な知性を有している存在を打ち立て、人間に当てはめたのである。アイゼンマンの建築は、こうした流れの上に存在している。しかし、そうした人間像は明らかに偏っていた。ポイエーシスを司るsubject に強大な中心性を集約させる事になる。それを弱めようとする反動が、ドゥルーズなどの動きである。その動きは、subject を消去する過剰な動きへと向かう。次の世代は、こうした動きに翻弄され、ポイエーシスをプログラムに委ねようとする。しかし、こうした方向も過剰である。私は、人間の存在を知性や感性という偏った一面で捉えるのではなく、全一的な存在として捉え直す事によって、こうした行き詰まりから脱却したいと考えている。人間を知性だけで捉えるのではなく、それ以外のエレメントを炙り出し、そこからの解決を試みようとする。それは、直観、感情および、未だ感情にもなっていない身体の総体である。それら身体性をあるがままに受け入れ、建築へと接続させる。そのことで、内部性は、アイゼンマン的な知性のブラックボックスから抜け出し、人間は建築へと連続することが可能となるだろう。それは、安藤の原点である直観としてのsubject の問題とも関わってくる。
私の試みは、このような建築の創造の支えとなるファクターを探査しようとするものである。アイゼンマンによるモチベーションというカテゴリーで括り、不可視なものを可視化させる方向は、パッションというものが重要であるという認識で、その前触れであったと言えるだろう。われわれは、さらなるarchitecture の概念を拡張しなければならない。
9.2 architecture の役割
外界(他者性、外部性)によるスクリーニング
architecture の基盤が、複雑な人間活動のうごめく場に置かれてしまっているにも関わらず、architecture 自身がそのことに従属するか、もしくは無関心でいることが問題である。特に日本においては、機能性と経済性の追求が基本にあり、そうした従属性に対する抵抗として、形の遊戯と素材性やディティールへの顕著な耽溺が目立つ状況である。今日の建築の重要な問題点は、architecture 自身の基盤が、近代の合理主義を超えて、さらなるグローバルな資本主義の配下に置かれたことである。社会や人間の欲望を超えて、グローバルな多様性を忠実に実行することがarchitecture の役割と信じ込まされているのである。そうした実行への圧力が引き起こす状況は、まさに歯止めが効かないものになりつつある。プログラムによって生成される形態は、その関係性のアルゴリズムによってほとんど無限に近いバリエーションを生み出すことができる。出てきた結果を検証することは、天文学的な数のパターンの検証であり、不可能である。生物ならば、自然淘汰によって篩にかけられるわけだが、architecture においては、そうしたフィードバックは殆ど行われないし、不可能である。
外界によるスクリーニングは、そうしたarchitecture 自身の欠陥を補完する存在として浮上する。しかし、現在においては、そういうものは存在しない。
建築が挿入される場所のanteriority をcanon として抽出し、継承することが重要である。さもなければ、建築は、長年培ってきた場所性を破壊する癌細胞のような存在になってしまう。
将来、そうした欠落を補う存在がサブシステムとして、既存のarchitecture に対峙することが必要と思われる。歴史や文化、人間自身の立場に立った存在としての、エージェントとしてのもう一つのarchitecture の存在。これらの二つが存在し、対峙させる必要がある。旧来のarchitectureとは別の存在であり、アバターとしての存在である。さらに、それらは、融合して基本的なマザーとしての新たなarchitecture への可能性を開く。
9.3 subject 中心主義からobject 中心主義への動き
現代西欧哲学におけるsubject 中心主義からobject 中心主義への動きに対して、現代における建築の意識も、こうした流れに呼応する。アイゼンマンやレム・コールハースの議論を、こうした流れの中で理解するべきであろう。彼らの議論は、subject 中心主義からobject 中心主義へと向かう移行期において位置づけることができる。subject とobjectとの関係を見直すことが重要である。建築は、今まで、強い subject に支えられ、全てを包摂するヒエラルキーを持った一つの世界をあまりにも過剰に信じてきたのである。
こうした世界観は、構成や関係性に囚われたobject を解放させ、subject との関わり方を再検討させるものである。特に建築におけるobject の在り方を探る上で重要で示唆に富む考え方である。object における構成や関係性は、人間が後付けしたものであり、本来のobject の姿ではない。この事はカントの相関主義、すなわちsubject のフィルターを通してobject を理解したつもりになっているが、実際は「物自体」に近づくことができないとする世界観の裏返しでもある。
基本的にarchitecture は、語源からもわかるように、テクノロジーの問題を孕んでいる。subject の地位を重視し、限界を認めてこなかったarchitecture は、テクノロジーによるobject の支配へと向かう。その結果、人間を凌駕する存在として、逆に人間の存在を蝕むものとなる可能性を孕む。ますます人間から離脱していき、人間自体を抑圧していくのである。コンピュテーショナル・テクノロジーは諸刃の剣であり両義的な問題を孕んでいる。こうした問題には、subject-object の問題が潜んでおり、今後、重要な問題として浮上するであろう。われわれは、こうしたsubject とobject の問題を真剣に思考しなければならない時期に来ているのである。
それでは、subject もobject も全てが対等の関係にあるとしたら、どのようなものになるのであろうか。
9.4 subjectivity の問題
建築とは、そもそも形式であり、「構造」であった。しかし、そこから離脱し、エネルギー体として、何ら機能を固定化させず、表象もしない流動的存在とは何であろうか? 抽象機械は、これを加速させる。それはobject が時間性を手に入れ、変幻自在に流動する生命体となるからだ。それは、認識し批評するsubject を否定し、認識行為を排除した欲望を持つだけの歪な生命体になる危険性を有している。
機械から生命へと移行していくが、生命は、量子的関係性が根本にあり、機械のような大雑把な仕組みではない。かなり極小の世界から生成している事が知られている。そういう意味で パラメトリック・プログラムも大雑把なものでしかない。
重要な事は、ドゥルーズが『千のプラトー』で述べているように、ある個体の行動がすべてそこから集約するかのように見える焦点として特徴づけられることに抵抗しようとする視点である。すべてが個人や個体に帰着しているかのように見えるシステム自体の否定なのである。資本主義は、こうした主体化のシステムで成立しているとも言える。個人を特定するシステムがいたるところに配置された社会は、「開かれた環境における不断の管理」を一層加速させている。ドゥルーズの関心は、外部からの力を折り返し転換し、方向を変える事によって、「抵抗」する焦点としてのsubjectのあり方をいかにつくるかであり、個人として、個体として、身元を特定しようとする力に対して抗い、「差異の権利、変異、変身の権利」をいかに個人や個体の内に具体化させるかにあった。虚像としての個人から、いかにも発しているかに見せている虚構のシステムの否定であり、資本主義がsubjectを肥大化させたことを否定しているのであって、決して、subject の存在自体を否定するという単純なものではない。
プログラム原理主義やobject 回帰主義の考え方は、こうしたドゥルーズの意識を超えて、subject としての人間の消去へと進もうとするが、そうした方向性は間違っているものと思われる。subjectivity の問題を検討することなく、性急に結論を得ようとする態度は、誤った方向へと進む危険性が見え隠れしている。
今日ほど、subjectivity を巡る建築理論の再考と哲学的な概念の見直しが重要と思われる時代はないのである。
10自身の建築概念
私自身の基本的な建築概念は、以下の8 つのカテゴリーに纏めることができる。
1 quantumetric・segmentmetric
2 robotectonic
3 de-centralism
4 con-jectivsm
5 bio-multiplicity
6 negotiation・intervening
7 post-vitruvian physicality
8 provisionality
これらの建築概念について、背景も含めて詳述していきたい。
10.1 quantumetric・segmentmetric(量子的生成・セグメント的生成)
ここに、新たな建築生成概念として、点集合およびセグメント集合の連結、離散、粗密分布によるvolume、space の配分・配置および機能の流れ、密度による運動エネルギーを表現する概念を提案する。
この提案は、subject が、object をvolumetric として生成し、内的で動的な存在として、アイゼンマンがdiagram を提案したことの延長上にはあるが、パーツに分かれた各volume間の運動に留まっていた概念とは異なるものである。
アイゼンマンによって、ル・コルビュジエのvolume を再定義し、力のベクトルをもった存在となった。このことは、不連続で凝固したタンジブルなobject を眺めるだけの行為を越えて、空間がエネルギーをもつという意識を孕む。一歩進めるならば、このvolume なる概念は、エネルギー密度をもつ連続体へと開かれる可能性を有していると言えるのである。
その契機は、volume が固定化されたsolid ではなく気体として、ル・コルビュジエが含意したことに始まる。その意味で、ル・コルビュジエのvolume 概念が重要な意識を孕んでいたのであり、ル・コルビュジエの功績は大きいものと思われる。こうした建築を生成する運動エネルギーは、建物全体を流れ、建物の限界を定義するエッジやsurfaceを消失させる。さらに、外部性のコンテクストが持つ生成エネルギーの流れも、建築の内部に吸収されていくことを可能にさせるのである。
こうした考え方は、ニュートン的な世界観における固定化したobject を超えるものである。固定化したobject は、ル・コルビュジエのvolume 概念へと進められ、アイゼンマンのvolumetric というvolume の力動性を通して発展し、volume を粒子化させる方向へと、さらなる動的な世界を開く事を求める。すなわち、quantumetric の概念は、volumeを離散的なエネルギー密度へと変換させ、それを前提とし、より運動性を高め、その質を全く変容させたものである。個々のobject が粒子として細分化され、粒子の総体が知能を持ったエージェントとして自身を構成する形式として定義される。
究極的には、人間の意識・前意識とも繋がる量子的な振る舞いを前提とする運動性をコントロールすることを目指す。脳波、体温、皮膚電流、呼吸や心拍数の変化など、身体が発する情報を抽出し、エネルギー密度に変換させるものである。それは人間以外の生命にも拡張されるべきと考えている。そのことによって、volume やspace を再構成するものである。
またsegmentmetric は、粒子より次元の大きいsegment による生成であり、quantumetric 概念に含まれるものである。各機能が要素主義的なユニットに集約され、部品化されるのではなく、volume 自体がニュートラルな粒子として分解され、robotectonic 概念による知性を持った動きによって、各粒子の再結合と再分配により全体が構成される概念である。もはや、volume に対する認識は量子的なものになり、従来の硬直したものとは大きく異なるのである。その時、object に対する意識も変わり、subject とobject とは古典的な二項対立で区別することはできなくなるだろう。
10.2 robotectonic( ロボテクトニック)
もはやsubject は、西欧的伝統に則った強い意志や知性ではなく、身体性とobject 群の複合的集合体であり、それがさらにエージェントとして、全体をフィルタリングし、時間性を孕み、quantumetric によって変容していくのである。人間の身体、subject 群、object 群との融合である。ここには、絶対的知性として策定したsubject は存在しない。すなわち、subject が見出す内部性としての古典的世界観は解体し、新たな複合的内部性が現れ、外部性とトポロジカルに連続するエッジを持たない流動的建築が生成されるのである。こうした生成過程によりアイゼンマンが危惧する標準化への問題自体を解消させるのである。さらに、もはや批評性は、subject が所有するものではなくなり、知的所有の枠組みを外れていく。過去のsubject による煌めく批評という美的で瞬時な解法は消失し、内外をトポロジカルに連続する複合集合体自身が、時間性を包含し、あらゆるものに忖度し、緩やかな解法が可能となるものを策定するものである。
こうした解法には、volumetric のようにsubject が線形的にobject を操作するのではなく、頭脳を持った個々の構成要素であるsegment 群自身が周囲を計測しながら配置を変えていく非線形的生成概念が根底にある。そうした一連の流れはrobotectonic によって行われるだろう。robotectonicとは、robotic とtectonic が結びついた概念であり、各部材やmatter が接合・離反において、その結合方式を、頭脳を持ったエージェントによってrobotic な動きが付加され、相互関係によって、全体が構成されるというものである。内部に非線形化システムが孕む抽象と具象、仮想と現実の両方を具有した生命的動きそのものである。
抽象性と具象性、仮想と現実、内部性と外部性、身体性と場所性、これらが、トポロジカルに相互交換するのである。object 概念は、こうした流動性を手に入れ、機械から生命へと変容し、さらには西欧的subject を解体し、人間の存在自体を開くのである。
私の今までの研究活動はこうした方向を見据えた上で行われてきた。
10.3 de-centralism( 脱中心主義)
アイゼンマンの思考を受け継ぐものであるが、基本的立場は異なる。アイゼンマンは、subject を旧来の意識のまま温存させようとしている。私の考えは、そうしたアイゼンマンの意識を超えて、さらにsubject のあり方を考察したものである。来るべきネットワーク社会を予想して、subjectの存在自体が変化し、ポイエーシスが旧来の形式を維持することの意味が変容する事を予期したものである。私にとって、初期の重要な建築概念は、subject の問題を巡るものであり、作家性概念の解体、個々のsubject のメルト化であった。それはARX 結成時に、私が述べた概念であり、VoidCenters の概念でもあった。視点を超えて観点の重ね合わせをおこなうものであった。異なる視点からの思考の重ね合わせは、subject の中心性および中心主義の解体を目論むものである。それは総合的なものではない。混乱や軋轢を否定するのではなく、逆に予定調和的方向性を否定するものである。その事で、標準化された凡庸な抑圧された思考を解放する事を目論むものである。しかし基本的なスタンスとして、プログラム原理主義のように、subject を消去しようとするものではない。
脱中心主義は、情報や富や権力が、一点に集中する考え方に対する批判であり、制作主体の権力に対することの批判でもあった。西洋中世における唯一の絶対者は神であった。神はすべてを支配し、絶対的な創造者と見なされた。ルネサンス期、人間は創造主体の役割を神から譲り受けた。ルネサンスは、絶対的な神の否定を通して、中心主義を解体するべき時期であった。代わりに、人間は絶対的な神の地位を引き受ける。近代の思考の出現によって、多様性を求める更なる過程を通じて、主体は脱中心化され、溶融し分散していく方向に向かいつつある。それでも、多くの建築家はまだ過去の中心主義に固執している。不可能であることを知っていたとしても、過去の残像に固執し、見せかけの中心化された主体によって意思決定をする。そうした過剰なsubject を修正するものである。
10.4 con-jectivism・bio-multiplicity (新しい主体と客体の関係性・生命多様体)
diagram は、現在という切断面への世界の投影でもあり、複雑な事象の抽象化でもあった。直観的意識に作用する図表学とも言える。直観的認識によって、世界を切り取り、その断面を開示させるものとしてのdiagram の歴史的意義を述べる必要がある。プログラムは、つくること、すなわち制作へ向けて、あらゆる情報を統合していくことを意味するものであるが、逆にdiagram は世界の認識を示し、複雑で絡み合った情報を整理する行為を意味する。さらには、整理を超えて、世界そのものを解釈し、変容させる魔力をもっていると言える。そうした整理過程で作家の意思が込められ、世界を作家の意思のもとに捻じ曲げることが可能だからだ。世界を切り取る静的な断面を開くものとしてのdiagram。問題は静的であることであった。常に動きが変容していく世界を切断し、静的なスクリーンに投影することの問題性は存在しないのか。客観的観察者を装い、制作者の意思を忍び込ませることが可能だからだ。
アルゴリズムは、コンピューターが実行できるよう、人間が与える指示の集合である。その際、まるで人間が解決するかのごとく問題を記述することもできる。またコンピューターが問題を理解できるように記述することもできる。
言語的に明確にして記述するということは、問題のステップを記述するだけに留まらず、その後の処理において他の「エージェント」と解をやりとりすることの可能性を開いている。コンピューターの世界で、エージェントはコンピューターそのものである。アルゴリズムとは、人間の思考とコンピューターの計算能力の媒介役であるといえる。このような通訳としての役割を果たすアルゴリズムには、2つの側面がある。ある面では、どのように問題を解決するかをコンピューターに指示する手段となり、そしてもう一面では、アルゴリズムという形式へ変換された人間の思考自体となる。
アイゼンマンにおいては、subject の知性はdiagram としてobject から読み取られ、object に格納することが試みられた。読み取られ、格納するものはcanon であり、創造性であった。近い将来、高度なテクノロジーの到来により、singularity を超える環境が訪れることが予想されている。こうした未来においては、subject にのみ頼る事なく、subject とobject の間に更なる介在する存在が出現することが予想される。それは、西欧的な世界観である二項対立からの脱却を図るものである。カント的世界観からの離脱であり、ドゥルーズが提示した方向への加速、すなわち、subject とobject とがヒエラルキーなしに完全に混在化し、一体化したものとなることの可能性が開けるであろう。そうした存在を否定することなしに、むしろ積極的に創造過程に組み込むべきだと思っている。
グレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在論は、subjectの知らないことの何かが原因で偶然の出来事は必ず起こるとする。対象は、いかなる観点によってもけっして汲みつくしえない深みを抱え、あらゆる関係から退いている。
すなわち偶然性の必然性。この世界は偶然に支配されているのであるとする意識を持つ。この概念の提示自体が、いかに西欧はカント的呪縛にとらわれていたかが理解できる。全てはsubject を通して存在するというカント的世界からの脱却である。あらゆる対象は存在論的に等価であり、object もsubject も全てが対等の関係にある。しかしながら、自由な多様性だけを歌っているのではなく、anteriority におけるcanon をベースにしたものでなければならない。
ハーマンが言う二つの解体こそは、テクノロジーが生み出す結果であり、architecture がtechné を語源に持つことからも理解できるように、テクノロジーが介在するarchitecture 自体の宿命である。すなわち、テクノロジーがobject を操作するためのものであった事も事実である。ポイエーシスは認識とは異なる。ポイエーシスを司るarchitecture においては、この問題に注意深く対処しなければならないだろう。
この文脈において、con-jectivism を定義しなければならない。
私は、subject とobject とが支配関係で結ばれるのではなく、object 自身も知性を持ち、subject の集合体との交流によって変容していくという概念を提示する。この立場は、現在のobject 中心主義への傾向を批判するものでもある。過去のsubject 中心主義へと戻ろうとする反動的なものではなく、あくまでも人間という制作者の存在を忘却しない事を求めるもので、subject とobject とが共存し、新たな状況に対して対応しようとするものであり、新たに出現するテクノロジーに適応し、その状況で人間の存在を確立する概念でもある。
私の基本的なスタンスは、subject が持つ強大な支配力によってobject にヒエラルキーを生じさせる関係性の否定である。
ハーマンは、「上方解体」「下方解体」として否定したが、私は、テクノロジーを内部深くに孕むarchitecture にとって、object は分解され、そして関係性をその都度、解体し、再びとり結ばねばならないと考える。
それは量子論的な立場とも付合する。観測した時、全ては固定されるが、それ以前においては、曖昧な重ね合わせの状態、すなわち、全ては決定されず自由で解体されている状態であるからである。
ハーマンが危惧するところの単なる原子論的に還元するアプローチやsubject による固定化された道具的関係性に帰着させるのではなく、あらゆる関係性へと開くobject 群自身の構造形式の変容となるべきであろう。しかも動的量子構造ともいうべき構造への転換である。構造とは静的であるが、これは動きうる構造体である。object は初期においては、個々のobject は退隠していて、ヒエラルキーを持つ関係性は存在しない。そのことが、外部のいかなる状況にも対応でき、あらゆるものに変容することが可能な構造体として準備されるものである。あらかじめsubject の目的のために関係性を策定させ、object をヒエラルキーをつけた固定化された関係性において構築するのではなく、object は無目的として開かれ、あらゆるものに準備するのである。
私が提起するbio-multiplicity(生命多様体)はドゥルーズのmultiplicité(多様体)を超えて生命的なものとして定義される。ドゥルーズは「持続というこの多様性は、決して多とは混同されず、まして持続の単一性は一とは混同されない。」と言っているが、bio-multiplicity(生命多様体)は、こうした持続という多様性や単一性を強調するドゥルーズの問題意識を超えて、以下に述べるような、量子性とロボット性を兼ね備え、さらには現実の空間にとどまらず仮想空間と横断し、時間と空間、現実と仮想との二重性を往来する概念である。人類は、自身の遺伝情報を肉体内のDNAに格納していたが、リアルな世界を超えた世界に情報を格納することが可能になった事が、新時代を開くのである。メタバースやデジタルツインを超えたプラットフォームにリアルな世界が連続するものである。すなわち現実を超えた持続的連続性を手に入れるとともに、ロボット・テクノロジーによって具現化を可能とさせ、現在に対しても、現実と仮想世界との両面に浸透でき、さらに未来へと自在に変化し、より持続的で連続的な流動性を志向するものである。
10.5 negotiation・intervening(ネゴシエーション・介入)
de-centralism から、仮想性と物質性の交換を求める方向へとシフトしていく思考が生まれた。Cyberspace asReference Space のプロジェクトによって、現実空間に非物質空間を重ねることで、旧来の場所性を越えようとするものである。
アイゼンマンは、ジャック・デリダと議論を重ねる過程で、プラトンのchora を超えて、介在するもう一つの空間を用意するべきことに気がついた。そのことによって、古典的な場所性を超えたのであった。カーサ・グァルディオラからレブストックパーク計画に至って、anteriority を現在に接木した。アイゼンマンの介在性なる概念は、現代建築にとって非常に重要なものである。建築は、現在という時間に、そして敷地にダイレクトに挿入されることを前提にしてきた。そのため、時間と場所に対して、二項対立的な関係図式しか生み出さず、周囲や過去との関係でエッジが生まれ、滑らかな連続性は拒絶される。アイゼンマンは、そうした構図を転換させたのである。アイゼンマンは、従来の西欧的二項対立的世界にあって、そこから脱却する道を発見した。デリダすらも乗り越えることができなかった硬直した二項対立を超えたのであった。さらにアイゼンマンは批評性と介在性とを結び付け、独自のスタイルを構築した。しかし、それでも、アイゼンマンは現実空間内での試みに留まっていた。
私は、アイゼンマンの思考の更なる延長として、想像とイメージに満ち溢れた仮想世界を現実空間に介在させ、両者を連続させることを試みようとする。その事が、古典的な場所性を解体し、自由な創造性を現実空間に孕むことが可能になると考えたからだ。
すなわち、私は、このアイゼンマンの介在性の概念を継承し、二項対立的なるものすべてに拡張しようとするものである。仮想性と物質性の対立、身体性という内部性と外部性の対立など、介在するエージェントの存在を想定するものである。そうしたエージェントによって、対立構造を越えたエッジのない連続性を担保しようと試みるものである。資本主義によって支配される人間存在の問題も、二項対立構造の解消によってなされるものと信じる。すなわち、従属か支配かという二者択一の対立構造からの脱却である。
10.6 post-vitruvian physicality (ポスト・ウィトルウィウス的身体性)
翻って、西欧の建築は、身体の比例および幾何学的体系を基にしてきた。このウィトルウィウスの身体性のもとに、身体を中心として、身体は宇宙的世界へと連続する。すなわち極大という拡大方向と極小という縮小方向である。空間は身体における数比を寸法というフィジカルな実体へと転換することで生み出された。建築の細部は、全てこの身体寸法の複製であり連続であった。西欧的世界における美は、数比にはじまり、形式性、全体性、論理性として位置づけられた。そうした思考は、canon によって、秩序ある都市を形成することに貢献した。
しかし、そのことは、人間の身体をユークリッド幾何学的世界へと押し込めることとなり、人間の存在を限定的なものとして捉えることになる。完璧な幾何学的世界へと人間を閉じ込めることは、理性だけを過剰に求めることにもつながる。本来、人間は数比的および幾何学的存在だけではなく、その基準から漏れ溢れるものを持っている存在である。私は、人間身体の特性を、寸法以外のものへと発展的に捉えたいと考えている。皮膚を流れる微弱電流、脳内を駆け巡る脳波、体温、呼吸や心拍数など、人間身体は外形的寸法以外に多様で豊かな特性を持っている。センシング・テクノロジーを使用し、こうした特性を建築へと連続させることを求める方向の概念である。
このことは、旧来のエッジやsurface によって閉じ込められ凝固されたvolume が、制限のない連続的な存在へと移行していくことの可能性を開くものである。孤立した不連続な建築をコントロールしてきた「意識」は変質せざるを得なくなるのである。
こうした構造は、微視的関係性をもち、量子論的に構造化することを求める。
旧来の建築の存在形式は変質していく。subject がobject を抽象的に構成することを超えて、object 自身が変動する環境に順応していくのだ。当然subject としての人間の存在は重要である。しかし、来たるべきsubject は、神に似せた知性の存在として西欧が作り出した虚構のsubject ではない。それは、当然のごとく、意識を含むだけでなく、身体内部からくるものであり、さらに未だ意識として構築されない以前の、人間が持つ原初としてのsubject でもある。それは人間の意識だけでなく、脳波や皮膚を流れる微弱電流、体温、汗、呼吸、心臓の鼓動などをセンシングすることによって得られる人間が持つ原初的全体性をも包含しなければならないのである。
そうした全一的subject を核として、外部性のいかなる状況にも対応でき、変容することが可能な「生命的多様体」を求めなければならない。
10.7 provisionality( 順次暫定的連続性)
われわれは、決定プロセスそのものを疑うべき時期に来ているものと思われる。線型的決定プロセスを当然と思っているが、それを見直すべきである。
ARX 成立時に以下の問題点を提示した。「情報の交換のスピードが高まるにつれ、伝達行為の脱臼を引き起こし、もはや正確な意味の伝達は不可能である。むしろ正確、論理性、統合といった概念ではなく、変質、変異、変形といった概念の方がこうした状況に対して素直に対応できるのだ。」
こうした意識は、決定行為の在り方の変革を促すものとなる。既にobject は、大量のデータを処理できるデジタルテクノロジーを通して伝達され、歪み、完結された存在ではない。量子コンピューターは、さらに演算速度と処理量を飛躍させ、object を古典的な幾何学を超えたものとして表出することが可能になる。まさに、ル・コルビュジエが含意した揺れ動くものとしてのobject へ触知可能であり、図表表現としてのdiagram による決定事項の結果としてobject が生成されるという生産に関する古典的線型性すらも超えようとしている。その事は決定行為自体の疑問視へと連続していく。もはや、従前の決定行為は、大量のデータを処理できるテクノロジーの発展によって侵食され、この決定行為自体の根底が瓦解しているのである。(例えばsubject が支配するテリトリーにおける決定行為としての表現であるスケッチは、決定以外の全ての可能性を消去する意味で、既に時代遅れなものになってしまっている。)
すなわち、決定行為に関するsubject とobject との従来の関係性を見直さなければならないのである。これまで、object は、subject の強大なる力によって一意に決定されてきた。モダニズムにおいては、まことしやかな客観性という衣を纏った決定がなされてきた。その意味で、モダニズムは、そうした欺瞞的客観性を帯びた決定性による生成概念を構築した建築運動と呼ぶ事ができよう。
ミクロな時間の流れは一方方向ではない。量子論において、時間の対称性が発見されている。すなわち、一方向に流れる線型的時間というものは古典的概念として理解すべきである。
電子が「上向きスピン状態」と「下向きスピン状態」の「重ね合わせの状態」にあり、観測するまではどちらの状態にあるのかは分からないが、観測した時点で、「重ね合わせ状態」からどちらかの確定した状態となることが発見されている。この問題に対して、ニールス・ボーア達は、確率的なものとして解釈した。このことは重要な問題を浮上させる。決定それ自身の存在が疑問視されているのである。われわれは、時間とともに、世界が一つ一つ決定されて、進んでいくものと理解してきた。その前提が崩れたのである。それは時間の進行性に対する疑問でもある。
エンタングルメントの関係にある二つの粒子は、どんなに離れていても、同時刻に相関関係を示す。すなわち遠隔と近傍の区別がなくなる。距離が消失するのである。
量子力学が登場するまで、object の実在は観測とは無関係に客観的なものだと考えられていた。しかし、観測に左右されるのである。つまりsubject とobject の関係の見直しが求められることになる。
マクロの世界では、時間の流れは過去から未来への一方向にしか進行しない。こうした非対称的な「時間の矢」、すなわち時間の方向性が存在するのである。しかし、ミクロの世界では、空間移動は前後左右上下とどの方向についても対称性を示す。
ニュートン的世界は、人間の認識における狭い経験量を神の領域まで拡大延長したものに他ならない。眼前に現れるobject は、われわれが経験する空間と時間を絶対化した視点での近似値に過ぎないのである。それは、存在する時間や空間の可能性に目をつぶった、単なる人間の一つのパースペクティブの視点に過ぎないものである。
こうした現象は、今までの実体概念や同一性概念、時間概念では捉えることができない。さらには、観測の問題を超えて、意識や記憶というメカニズムとも結びつき、すなわちsubject との関係の存在も予感させる。すなわち、subject やobject の概念すらも変更を突きつけられているとも言えよう。
量子力学では、「これ」と「あれ」とを区別する物理的手段は存在しない。つまり個別同一性は成立しない。すなわち、全ては区別されることなく関係性の海でつながっているのである。量子力学における新しい状況は、われわれが知っている空間や時間の概念だけでなく、subject やobject の概念の解体を迫っているのである。
時間や空間の概念は、「自己同一性」と「線型的因果律」の上に成り立っている。因果律は線型的時間を前提にしている。全てが「自己同一性」、「線型的因果律による決定性」をもつとすることをア・プリオリな前提としている事で成立している世界が瓦解しているのである。
決定という一方向の線型的時間性による二項対立的行為により、多くの重要な考慮すべき可能性が無視され消去されていく。何かを決める事は、それ以外の可能性の全てを消去する事になり、時間軸上に抑圧が存在することになる。したがって、本来は決定せずに、暫定的に留保しておくことが、多くの検討すべき可能性を残存させ、潜在性を高めることに繋がる。量子論によって、線型的因果律と決定性は否定された。重ね合わせという確率に支配された両義性を持っているのだ。それは量子論的な立場とも付合する。観測という決定した時に、全ては固定されるだけである。それ以前は、通常は、決定されない曖昧な重ね合わせの状態であるからだ。
さらにミクロにおいては時間の対称性が存在する。したがって、線型的因果律による決定論の絶対性を見直さなければならない。決定事項のあり方そのものの変革の必要性が求められているのである。
私は、従来の二項対立的な決定原理を、暫定的に多項並立的に留保する原理に置き換えることを試みる。その事によって、選択において消去されていく多くの可能性を掬い取りたい。
これまで、時系列で過去の決定の積み重ねがなければ、次の決定行為を執行する事が出来ないという順次決定行為の連続性が信じられてきた。この順次決定行為の線型的連続性から脱皮し、時間の対称性を孕む方向、すなわち時間軸上における各時点での決定行為が逆流することの可能性を孕み、一意に決定する行為を暫定化させる並列的な連続性へと変換させるのである。トポロジカルな関係性だけを温存させるプロセスならば可能性は温存できる。コンピューター・テクノロジーは、こうしたプロセスを格納可能であり、新たな微分化と積分化の可能性を開いていく事ができるだろう。アイゼンマンやコールハースの図表表現としての静止したdiagram においても、世界の決定的切断であり、一意に決定するプロセスであった。こうした一意に決定していく順次決定行為の連続性の決定プロセスを変革するべきであると考える。また、object の完成という時間の流れが、subject の継続的な思考という時間の連続性を妨げないことも重要である。時間は多重性を持ち、あらゆる可能性を包含しながら並行して流れるものとして理解すべきである。私が提唱する provisionality( 暫定的連続性)は、こうした時間概念のもとに提示される。私の建築概念の最も重要な位置に存在するものである。
10.8 subject-object 問題
以下の図は、私の建築概念を、相互の関係性を考慮して配置したマップである。ル・コルビュジエのplan からアイゼンマンのvolumetric への発展。そして今後の建築の方向性に対する自身の予想を示している。
横軸は時間軸を表している。上下に、virtual とreal の世界が並置されている。con-jectivism、bio-multiplicity、subob-jectivism、vertual、real の関係性が左側に表現されている。中間には、old architecture のmetric とtectonic との関係性を示している。
real 側に存在するmetric からparametric へ、そしてvertual側のrobotectonic やquantumetric へと向かうベクトルが示されている。そして、vertual 側のrobotectonic やquantumetric から、real 側への横断により、real 側だけに存在していたold architecture からvirtual 側に拡張されていくnew architecture の変容するプロセスが示されている。
山口 隆(やまぐち たかし)/ 建築家・建築理論家
山口隆建築研究所主宰 京都大学大学院工学研究科、建築学専攻、博士(工学)
1953 年京都市生まれ。安藤忠雄建築研究所を経て独立 1988 年、ピーター・アイゼンマンのパートナーやコロンビア大学の理論家達とともに研究グループ ARX を結成し、「主体の解体」を目指して、ネットワーク上でテレコミュニケーションによる設計活動を始める。 フランス、イタリア、ドイツ、フィンランド、ルーマニア、ペルー、中国などから招待作家として展覧会を開催。パリ・ラ・ヴィレット建築大学、ミラノ工科大学、清華大学、プリンストン大学、MIT などでレクチャーおよび設計デザイン教育を行う。 ハーバード大学客員
研究員、コロンビア大学客員教授、東京大学客員研究員を経て、現在に至る。
脚注
註1) スイープ( 挿引):3D グラフィックのモデリング技法のひとつ。平面に描かれた図形をある軌跡に沿って移動して立体化する手法。直線状に移動すれば押し出しと同じ結果にな る。軌跡をパラメーターで規定してひねりや回転を加えることもできる。
註2)ケネス・フランプトンはミースを古典主義との両義的なものとしてみているが、それは三次元的な見方であって、モノとして見ている見方である。ミースは古典主義とは作り方が異なる。古典主義とは、マテリアル、構造、テクトニックの関係がきっちりと分節されていることをいう。ここには古典主義的な関係はなく、断面を必要としない。平面のみの構成でそれがスイープ( 掃引) して空間ができている。平面を見たら空間がわかるようになっている。断面はパラメーター(高さ)を与えたらできるような空間になっている。ある意味、古典主義的断面の不在であり、空間を立面や断面によって美的に構成するのではなく、ある種パラメーターに委ねている、数学的プログラムによって生成される空間の萌芽とみられる。平面を極めて抽象的に作り、スイープさせて、配列するという作り方、すなわち、平面的に見ているのである。シンケル的な平面操作、新古典主義的手法(配列など)を引用しながら、プログラム的なパラメーターを入れ込む操作を行なっている。それによって多次元的なパースペクティヴが生み出されている。
註3)ドゥルーズ/ガタリの抽象機械の概念とサイバネティックス理論に影響を受け、コンピューター・プログラムによる解法に対しての信仰をもち、未来に投影しようとするユートピア的な楽観主義。筆者が命名したもの。
註4)∬ 291. p . 289..Gottfried Wilhelm Leibniz, Essais de Théodicée surla bonté de Dieu, la liberté de l’ homme et l’ origine du mal,邦訳『弁神論 上巻』佐々木能章訳,工作舎,1990 年,291 節 p54
註5)Gilles Deleuze, Le Pli-Leibniz et le baroque, Minuit, 1988, p. 34.邦訳『 襞-ライプニッツとバロック』,宇野邦一訳,河出書房新社,1998年,p44.
註6)Gilles Deleuze, Le Pli-Leibniz et le baroque, Minuit, 1988, p. 90.(以下 pli).邦訳『 襞-ライプニッツとバロック』,宇野邦一訳,河出書房新社,1998 年,p117.
註7)Gilles Deleuze,Empirism et Subjectivité Essais sur la nature humaineselon Hume, PUF, 1953, p. 99.(以下,ES).邦訳『経験論と主体性――ヒュ ームにおける人間的自然についての試論』木田元,財津理訳,河出書房新社, 2000 年,p140.
註8)差異と反復 財津理 訳 上巻 河出文庫 2007 年 p61Gilles Deleuze, Le Pli-Leibniz et le baroque, Minuit, 1988, p. 5.(以下pli).邦訳『 襞-ライプニッツとバロック』,宇野邦一訳,河出書房新社,1998 年,p9
註9)Gilles Deleuze, Le Pli-Leibniz et le baroque, Minuit, 1988, pp. 20-21.
註10)邦訳『 襞-ライプニッツとバロック』,宇野邦一訳,河出書房新社邦訳p27-p29.Gilles Deleuze, Le Pli-Leibniz et le baroque, Minuit, 1988, p. 27. 邦訳
註11)『襞-ライプニッツとバロック』,宇野邦一訳,河出書房新社p35-p36.
註12)Gilles Deleuze, Le Pli-Leibniz et le baroque, Minuit, 1988, p. 107..邦訳『 襞-ライプニッツとバロック』,宇野邦一訳,河出書房新社,1998年 p138.
図版出典一覧
Fig.1 地球中心の天体システム(1524)
出典:Wikipedia
Fig.2 ケプラーの多面体太陽系モデル(1596)
出典:Wikipedia
Fig.3 西洋の数比原理(1977)
出典:Cornelis van de Ven, Space in Architecture,Van Gorcum Assen
/ Amsterdam, (1978), p12.
Fig.4 バルセロナ・パビリオン平面
出典:クレア・ジマーマン『ミース・ファン・デル・ローエ』
Taschen、2007 年、 p43。 筆者による再描画。
Fig.5 フリードリヒ通りの摩天楼案(1921)
出典:クレア・ジマーマン『ミース・ファン・デル・ローエ』
Taschen、2007 年、 pp22, 23。筆者による再描画、CG モデリング画像。
Fig.6 ガラスの摩天楼(1922)
出典:クレア・ジマーマン『ミース・ファン・デル・ローエ』
Taschen、2007 年、 p24。 筆者による再描画、CG モデリング画像。
Fig.7 円錐曲線
出典: 筆者作成
Fig.8 ア・バオ・ア・クーの覚醒
出典: 筆者作成
Fig.9 ベルリンシュプレーボーゲン都市開発国際コンペ案
出典: 筆者作成
Fig.10 ベルリンシュプレーボーゲン都市開発国際コンペ案
diagram
出典: 筆者作成
Fig.11 参照空間としてのサイバースペース空間の生成概念プログラム
出典: 筆者作成
Fig.12 建築概念の関係性diagram
出典: 筆者作成